2020年12月1日
------- 先生、コロナで毎日大変ですが、お変わりありませんか。卒業生のTです。「エール」も終わりましたね。私は週3回のテレワ-クで、比較的自由時間があるので、大学時代に先生が紹介してくれた『大恐慌を見た経済学者11人』を読み返しています。そこで、シュウォ-ツがやたらフィッシャーを貶しているのが気になりました。だって、彼は貨幣数量説を唱えた最初の偉大な経済学者ですよね。確か先生の講義でも一番初めの方に出てきました。弟子が自分の先生の悪口を言っているようでとても気になりました。どうなのでしょうか。
------- 朝ドラフアンのT君、久しぶりだね。質問有難う。「エール」面白かったね。祐一、久志、大将、それに藤堂先生のからみが特に面白くて毎朝の楽しみでした。藤堂先生は教師の鏡だね。
さて、君の質問です。シュウォ-ツさんはフリ-ドマンを師として非常に尊敬しています。そのフリ-ドマンはフィッシャーのアイデアを基礎にしています。確かに彼女の好戦的態度を割り引いたとしても、おかしいね。どうも彼の人柄にあるのかもしれません。そこで、フィッシャーの人となりについて調べてみました。少し長くなりますが、辛抱して読んでください。
① 生い立ち
フィッシャーは1867年2月27日にNYのソーガリティで生まれている。彼の祖先はドイツ人であり、16Cに宗教的迫害から逃れるために当初は北部アイランドに移住し、18Cになってアメリカに移民として入ってきました。フィッシャーという名前はドイツ語の漁師からきているそうです。彼の父、ホワイトフィ-ルドは優秀な成績で高校を卒業しますが、家庭が貧しかったので高校卒業後働き22歳でエール大学に進学し、1859年に卒業しています。父は牧師になるためにYale Divinity Schoolに進むためにNYのいくつかの学校で教師としてラテン語、英文学を教えますが、その時にフィッシャーの母となる、エルミラと出会っています。父30歳、エルミラ15歳でした。当初は彼女の家族は年が若すぎるとして反対しましたが、Yale Divinity Schoolに進学したのを機会に、学生のままで、1863年7月1日に結婚しています。
父は無事神学校を1865年に卒業し、NYのソーガリティの小さな町の教会の牧師として赴任しました。そこで、1867年2月27日に第3子として誕生したのが、アービング・フィッシャーでした。彼の名前は当時人気のあった『リップバン ビンクル』の著者、ワシントン・アービングからとられました。
ちなみに、第一子はコーラで父の卒業1年前に生まれています。第二子はリンカ-ンと名付けられましたが、生後1ヵ月余りで亡くなりました。第四子はフィッシャー誕生から7年後に生まれた、ハーバ-ト(Herbert)で生涯にわたって兄、フィッシャーを助けました。
1868年の夏には、フィッシャーの家族はピースデ-ルに移っています。フィッシャーが18ヵ月の幼児の時です。この町の有力者であるハザ-ドが父の評判を聞き、新たに設立した教会の牧師に彼を招聘したのです。ハザ-ドは羊毛製造業で成功し一代で大きな富をなした成金です。その後のフィッシャーに大きな影響を持つことになります。与えられた住宅は煙突が3つもあり、広い芝生の庭のある大きな邸宅でした。ここでフィッシャーたちは10年あまり過ごすことになります。しかし、彼らの幸せな生活は長くは続かなかった。フィッシャーがまだ6歳であった時、9歳の姉コーラが腸チフスにかかりあっ気なく亡くなった。これは両親にとっては大きなショックでしたが、フィッシャーにも大きな影響を及ぼし、すっかり健康オタクになり、その後健康の重要性を人々に訴える運動を行います。
1880年に巡回牧師がピースデ-ルにやって来たとき町の信者は大きく2派に分かれました。父はこの巡回牧師を大酒飲みの二重人格者として批判しますが、結局彼の方がピースデ-ルを出ることになります。こういう場合はいつも真面目な人の方が負けるのですね。彼らはニュ-ヘブンに移り父は無職となり、家具を作り僅かばかりの生活費を稼ぐという状況に陥った。
父はフィッシャーをセントルイスに住んでいた彼の姉(その夫はワシントン大学の教授)に預かってもらい、フィッシャーはそこでスミスアカデミーの最後の2年間を過ごします。そこで、数学の面白さに魅了されます。この時に彼と同じ牧師の息子であったエリオットと友達になります。彼の生涯唯一の友人です。父は1982年にようやくミズリ-州キャメロンの教会の牧師に採用され、1983年にはニュジアジーでエラと共に留まっていた家族を呼び寄せます。フィッシャーは父に手紙を書いている。ジョッギングなどをして体力の保持に努めること、また大学に進学したい旨を書きます。父の就職で一息ついたものの、彼らの運命はその後も悪くなばかりです。苦労続きであった父は新たな職をえたものの、健康を害し、1983年末にニュ-ジアジに戻りそこで亡くなります。ここからフィッシャーの苦労が始まります。実質的には長男として家族を支える責任が出てきたからです。彼らの手元にある現金は父が残した500ドルと成金のハザ-ドが香典にくれた100ドルだけでした。フィッシャーはその500ドルを当面のエール大学の学資にあてます。フィッシャー一家は学費と生き残るために必死で働かねばならなかった。フィッシャーは1時間1ドルの家庭教師や、借りた部屋をまた貸しするなどをします。母親は内職でミシンかけに励み、弟のハーバ-トはまだ11歳であったが、内職の配達を手伝った。貧しさは家族の団結を強めるのだね。
フィッシャーは1884年9月にエール大学に入学します。数学科の先生たちは彼の数学の才能を見出して、チュ-タに推薦してくれます。エール大学では友人はなかなかできなかった。それは富裕層の子弟が多かったこともあるが、彼の生真面目さと正しさと間違いを厳格に区別し、冗談も解さない性格はクラスーメートを彼から遠ざけました。彼自身もクラスメ-トはみな浅はかで世間の娯楽にしか関心のない尊敬できない者ばかりと、友人のエリオットにこぼしています(彼との文通はフィッシャーが1984年にセントルイスを去る時から始まり、彼が死ぬまで続き、その手紙はエールの図書館に残されている)。彼のクラスメ-トは彼を付き合いの悪い、利己的な人物と評価していたようです。フィッシャーにすれば彼らは金持ちの子弟で日々ノ-天気にくらしていると楽天家と映ったのでしょう。
大学生活は健康の重要性からボート部に所属し、体力を付けた。また、かれは父親譲りの器用さがあり、高校時代からピアノの内部構造の改良に興味を持ちその改良を大学に入ってからも続けていたが、ようやく完成し特許を得るまでになった。1885年夏にそれをNYのピアノ業者に売り込みを図ったものの全く相手にされなかった。
フィッシャーは大学ではラテンとギリシャの両文学を習っています。また数学では才能を発揮し教師からは大いに目をかけてもらいます。この頃、フィッシャーは自分の将来について友人のエリオットに次のような手紙を書いています。「私は大学を出たら、すぐにいつまでも続けたい職につきたい、そう数学教師になりたい。しかし、生きていくために必要な原理は何かが分からず悩んでいる。私の小さな世界で私が行っていることに対してどういう方向に進むべきかの指針が欲しい。そのためには哲学と宗教の勉強もしたい。また、次のような手紙も残っています。「私は毎日1,2時間、ボートを漕いでいる。それは今秋のレースに出場するためである。私の主目的は、来年の勉学に耐えられる強い肉体を作るためである。クラスで一番の成績を維持したいからだが、それは狭い意味からではない。私の学業の最も重要な本来の価値を見出したいからだ。やりたいと思うことはいっぱいある!でもそれをするには時間は少なすぎるといつも思っている。一般書、歴史書、科学と宗教に関する本をもっと読みたいし、たくさん書きたい、金儲けもしたい。とりわけ今一番知りたいのはある偉人(ゲーテか)が何を言ったかである。私はそれを追求する能力があると思うし、そうすることは正しいことだと思う。私たちは実に自分たちのことをほとんど知らないのではないか。どんな感情をもち、どのような運命にあるのか。唯物論、必然主義、無神論が正しいのかどうか、なぜ誰も知ろうとしないのだろうか」。(1986年夏)
1988年6月の卒業式では総代をつとめ、このまま大学院に進学すべきか、教師になるべきかどうか迷った。彼の卒業成績では学部レベルの数学教師には十分なれた。ノース・カロライナ大学で教師になるために彼の教授たちは彼の数学能力の高さを示す推薦状を書いてくれた。しかし、年500ドルの奨学金が得られることにもなり、最終的には大学院に進学し、数学でPhDをとることを目指すことになった。奨学金も100ドル増加してもらい、600ドルとなり、ラテン語を教えたり子供たちの家庭教師をしながら、大学院生活を過ごすことができた。また、鉄道会社の社長の息子の家庭教師をしています。金持ちの息子ながら今一つ能力不足で、結局めざすエール大学に入学できなかった。金持ちの息子とは得てしてそのようなものです。私にも経験があります。彼はフィッシャーの家族を何かと気にかけてくれた、成金のハザ-ド氏からは1000ドルの借金をします。フィッシャーはその後彼の娘と結婚することになり、その結婚は彼の運命を大きく変えることになります。
② 妻、マーガレットとの出会い
彼はエール大学で数学の教師となり、1891年秋から教え始めます。フィッシャーは女性に興味がなかったわけではないが、勉学にあまりにも忙しく、また家族を経済的に支える必要があったのでそのような余裕はなかった。それに当時のエ-ル大学は男子校であり、女性に接する機会がなかった。もちろん、結婚は希望していたがまだ早いと考えていた。エリオットに宛てた次のような手紙が残っています(1891年夏)。
「私がここで出会った女性はみな素晴らしくて可愛い、なかでもその内の1,2人はとても魅力的でした。もし私が恋をするならその女性は道徳的に潔癖であり、素晴らしい嗜好を持ち、広い教養をもった人であらねばならない。もし、君がそれ以上に重要なことがあると思えば知らせてください」。
1891年に大学の友人が自宅でホームパ-ティを開きフィッシャーを招待してくれた。その時、何人かが招待されていたが、ピースデ-ルから来ていた一人の若い女性に大いに魅せられ、忽ち恋におち、結婚するならこの人だと思い込んでしまった。彼女はマ-ガレット・ハザ-ドと言い、彼らは幼いころ同じサンデ-スク-ルに通っていたが、あまりに昔の子供時代のことであり、お互いに覚えていなかった。最初に会った時、フィッシャーは彼女のことを知らなかったし、彼女の名前すら知らなかった。あの成金富豪の娘であることを。
ハザ-ド家の歴史を見ますと、祖先は米国建設の6年後にボストンに来ています。マーガレットの曽祖父ロウランド・ハザ-ドは1794年にサウスカロナイナ、チャ-ルストンに羊毛工場を設立します。この工場が繁栄したのです。マーガレットの父はこの工場を引き継ぎ、フィラデルフィアの牧師の娘と結婚し、大きな邸宅を建てます。一昔前の伝統的な屋敷でした。マーガレットは1867年に生まれました。フィッシャーと同い年であった。フィッシャーの家からは100マイル(160㎞)離れていました。彼女は自宅ではマージ(Margie)と呼ばれており、11歳上の長女カロラインは未婚で教育者であった。大学の学長まで務めました。彼女はまた父の死後大きな財産全額を引き継ぎますが、それによりその後、大恐慌で大損したフィッシャーを金銭的に援助することになります。次女はヘレンであり、彼女は後にピュリツア賞を受けるベーコンの母親でもある。マージは大学にこそ行かなかったが多くの家庭教師に付き、よく勉強しました。彼女はまた、NYやLondonで歌の勉強をし、素晴らしいソプラノボイスの持ち主でした。彼らのロマンスはその後遅々として進展しませんでした。マージはピースデ-ルに戻り、一方フィッシャーの方も講義と研究に忙殺されていました。
最初の出会いから数週間後、フィッシャーが通りを歩いていた時、偶然写真館のウインドウにマージの写真を見つけ、母になんとかあの写真を譲ってもらえるよう依頼します。1892年の夏休みにピースデ-ルまで自転車で行きます。表向きは彼の父が説教をする教会にいくことでしたが、実はマージに会いにいくためでした。丁寧にアイロンをかけた一張羅のスーツを着込みました。長女のカロラインが2人の仲介役を買って出て、母親を説得します。彼は日曜日の夕食の招待を受け、2人のロマンスは始まります。その後もフィッシャーはしばしば、自宅に招待され、姉も母親もすっかり彼が気に入ります。息子ノートンは父の自叙伝の中で次のように述べています。
「彼は求愛の意図を若い彼女に悟られる前に、まず父の承諾が得られるように慎重に事を進めたが、求愛はあっという間に進んだ。彼は景色の良い近くの池にボートに乗りに行かないかと誘った。そこで、彼は頭上に垂れ下がった大きなモミジの木の枝に隠れるようにしながら、一生懸命にプロポ-ズをしたが、その時は返事がもらえませんでした。しかし、次の朝、再度同じ木陰に戻ってようやく返事がもらえました」。
マ-ジは1892年10月6日の日記の次のように書いています。「昨日私の婚約が決まった。とても素晴らしい、まだ信じられない。この話は9月28日にあった。次の日には私の気持ちは決まっていた。私は今とても幸せ。ア-ビングが私に注いでくれる愛情にとても応えきれない。私が彼の理想像からとても違うと知ったらと思うととても怖いわ。恐れることはないと思うが、でも私の欠点が」。
父親としては子供のころから知っていたとはいえ、ア-ビングがどのような人物か知る必要があった。彼女には一番少ない財産しかやれないから、特に経済的には心配でした。彼はア-ビングと話すうちに宗教心をもち、堅実な考えと高い志をもつ人物であると理解します。彼の友人にも問い合わせると彼がエール大学で将来有望視されていること、博士論文は経済学界で注目されていること、さらにこの5月から5年任期付きの数学の助教授に採用されたことも知った。彼はまだ25歳の若輩であるが、この地の優れた大学の一つで将来の大きな成功を約束された人物であると判断します。
フィッシャーは貧しい家庭の生まれで、彼女の財産を目当てに結婚するのではなかという懸念もありますが、彼が初めて友人の家で彼女に会った時にはその名前さえ知らなかった。そして一目惚れしたのである。確かに彼は慎ましやかな生活をし、家族を支えるために一生懸命働いたが、もし彼にそのような卑しい根性があるなら、エール大学には資産家の子弟が多く、そのような人物を友人として利用できたはずである。彼は純粋で、虚栄心はなく、出世ばかりを考えているような人物(social climber)ではなかった。
彼は親友に婚約について次のように報告している。「ミス・マ-ガレット・ハザ-ドと婚約しました。君にもこのわが人生最大の幸運を喜んでほしい。私が彼女の素晴らしい性格を述べることは神を冒涜するようなものです。私が7年前に私の理想とする女性について書いた手紙のこと覚えていてくれるかい。彼女はその理想にピッタリどころか全くそれ以上。どんなに繰り返し考えてみても私は彼女の愛する人に、また夫に値しないのではないかと。彼女は芸術家であり、歌い手であり、音楽にかけてはかなり独創的な能力を持っている。彼女はしっかりした堅実な考えの持ち主であるが、優しく、慈愛に溢れ全ての愛情を包み込む包容力をもっている。彼女は厳密な科学的知識についての教育は受けていないが、考えは独創的であり、非常に誠実である。彼女は良い詩を愛し、自分でも詩や文章を書く。…彼女は教義には全く固執しないが、信仰心は非常にあつい」。
彼らの結婚式は1893年6月に決まった。この富豪の娘とエールの新進気鋭の経済学者の結婚はマスコミの注目を集めます。NYタイムズ紙も取り上げ、その豪華さを皮肉ったほどです。
③ 新婚時代
彼らは翌年新婚旅行にイギリスとヨ-ロッパに出かけている。フィッシャーはヨーロッパの数学者と経済学者に会うという名目でエールから休暇をもらい、旅費はハザ-ド家が負担してくれました。さらにハザ-ド家は2人のために、帰国までにエール大学のすぐ近くに3階建てのヴィクトリア調の大邸宅を建設してくれた。この建物は、その住所が460 Prospect Streetであったことから、「Four-sixty」と呼ばれました。この建物はエールの名所になったほどです。
彼は彼の妻のお金や財産を使うことを拒みます。自分の力で母と弟の経済的支援を行った。この旅行中にマ-ジは妊娠し、12月初めに暖かいCarnesに移り、そこで、クリスマス休暇でやって来たハザ-ド家の人たちと合流します。
1894年4月30日にマージは長女マーガレットを出産している。フィッシャーは大いに喜び、その喜びを友人に書いている。「こんなに可愛い子供を見たことがない。母親があまりにも可愛がるので少々妬ける。私たち家族はいま大変幸せです」。
その後、6,7月はスイスで過ごし、アルプスの山、湖、氷河を楽しみます。
8月初めにフィッシャーたちはイギリスに戻り、フィッシャーはオックスフォ-ド大学で研究発表をします。そこで、マージはニュ-ヘブンにいる母親に次のように手紙を書いています。「私は彼が公の場で話すのを見るのはこれが初めてでした。彼の言葉は分かりやすくとても見事に纏まっていました。彼は多くの聴衆の前で原稿を見ないで話すのよ。発表が終わった後、何人かの人が彼に話しかけて、エッジワ-ス教授を紹介されたのよ。彼は素晴らしい人でした。彼も私が話しかけたことに驚いたと思う。でも、彼は『フィッシャー博士は非常に着実に力をつけています』と言ってくれたのよ」。
8月末に彼らがニュ-ヘブンに戻った時、新居はすでに完成していた。グランドピアノを含む調度品は完備されており、3人のメードも雇われていた。地下は台所などのユーティリティで、1階がメインで音楽室、食堂、書斎、広い玄関、2階は寝室が5つあり、バスル-ムが2つあった。3階には子供部屋が3つ、3人のメードの部屋があった。長女、マーガレットがピスデ-ルで洗礼を受けた後、9月に盛大な新築パーティを開催している。ピースデ-ルの親族たち、またエールからも多くの人が出席した。
フィッシャーは1893年5月24日に年棒2000ドルで5年任期の数学の助教授に任命された。彼の教師としての教え方は非常に厳格で、ジェスチャーやジョウクは全くなく、坦々と実施された。経済学も数学も厳密な科学であるとの立場から講義を進めた。教える傍ら研究にも力を注いだ。
彼の数学科の助教授は1年で終わった。1985年に経済学科に1名の欠員ができたためである。教授会でいろいろ議論された後、最終的にフィッシャーが1895-96年の学期から政治経済学科に移ることになった。こ移籍について、フィッシャーは友人に次のように手紙を書いている。「私は今度の移籍で直接人間生活を扱うことができ喜んでいる。私の数学的訓練を生かせる。これまでの数学的研究で唯一悔いることは、人間を直接扱うことができなかったことである」。
当時の経済学はエールでも他大学でもその考え方は過渡期の状態にあった。理論的、分析的アプロ-チを好む人と歴史的アプロ-チを好む人のグル-プに分かれていた。ドイツ語で勉強してきた多くのアメリカの経済学者はドイツ歴史学派の影響を受けており、理論分析を拒否した。彼らは経済学の役割は過去に経済にどのような事が起きたか、それを詳細に研究することであった。その後、理論の重要性は広く認められるようになったが、この当時の理論は未熟で不適切なものであると考えられていた。確かに彼らは理論には害があると考えていた。なぜなら、それは非常に複雑な歴史的に刻まれた現実を単純に考えてしまうからである。
経済理論を重視する人たちの中でもさらに考えが分かれた。何人かはオーストリア学派を中心に提唱された新しい限界効用、限界生産物の議論を受け入れた。しかし、他のグル-プの人たちはまだ古いイギリスの古典派経済学に固執していた。新しい理論を受け入れた人たちもほとんどが数学の利用を拒み、それをどのように利用するのかさえ知らなかった。
新しいタイプの理論家である、フィッシャーはきわめて少数派であった。彼の同僚は彼を評価しなかったし、彼も彼らの研究を経済科学の観点からは生産的ではないと見下した。エールの経済学者はドイツの歴史学派の影響を受けており、フィッシャーは孤立した。対面的には上手く人間関係をこなしたが、学者としては彼らと全く異なった世界にあった。
経済学者の中には彼と共同研究をすると自分のキャリアに傷がつくとまで恐れた。フィッシャーはドイツ経済学は霞を食っていきている(eaten conceit)とまで考えた。実際以上に自分を評価し自惚れの中で生きている、と考えた。
フィッシャーは1898年6月に正教授に昇格します。若干31歳にしてですよ。准教授を飛び越えての昇格は当時としても異例でした。給料も50%アップの3000ドルに増え、終身雇用の資格を得た。学部卒業から僅か10年で正教授となった。業績表によれば、この間、56の論文を書いている。博士号を取得後7年しか経っておらず、しかもそのうちの1年間は海外で過ごしている。1897年6月には次女が生まれている。彼女の名前はハザ-ド家の後継者、カロライン・ハザードの名前をもらって、カロラインと名付けられた。翌春には彼の弟、ハーバ-トが優秀な成績で卒業している。フィッシャーにとって、すべてが順調であった。ハーバ-トは兄と異なり何かと控えめで、シャイな性格であった。
④ 病になる
今では信じられないことだが、当時は自転車に乗り過ぎると心臓を弱め、他の疾病を誘発し寿命を縮めると信じられていた。フィッシャーも自転車に乗り過ぎて体力がなくなったと考えるようになった。1898年夏にピースデールで家族と水泳をしている時、潮に流され溺れかかり、必死の思いで岸にたどり着いたが、この頃から自分の体力が大きく弱っていることを悟った。その後、ニュ-ヘブンに戻ったが、毎日気だるく、午後になると微熱が出た。フィッシャーは医師の診断を受けたが、問題はないということであった。しかし、父のことがあるので、念のために喀痰検査を求めた。その結果は陽性であった。当時肺結核の回復率は低く、不治の病とされていたので、それはフィッシャーにとって死の宣告でもあった。
1898年秋学期はエールに休職届を提出し、彼はマージを伴ってNYのサンクララのサナトリウムに入り、マーガレット(5歳)とカロライン(2歳)をピースデールの伯母に預けている。この時期、エリオットに次のような手紙を書いている。
「結核は早期の段階で見つかったので、治療は可能であった。ここに来て3週間になるが、熱も平熱に下がり、体重も戻った。私はポーチに座って過ごしている。気温は20°Fで雪が2フィートも積もっている。インクも凍るので、鉛筆を使っている。」
病は少しずつ良くなっていったが、さすがのフィッシャーも不安と鬱に悩まされることになる。マージが父の1周期の法要でピース・デールに戻り、しばらく滞在したので、フィッシャーの精神面の症状は悪化した。今度は彼の鬱症状を回復させるために、マージはコロラド・スプリングに移り、子供たちとも一緒に暮らすことにした。
そこでは昔の460での生活と同じとまではいかなかったが、家族が揃いほぼ正常な暮らしができるようになった。しかし、フィッシャーの恐怖と鬱症状は続いた。この時期彼は結核患者が回復期に過ごせるテントを開発した。彼自身もそのテントで過ごし、そこで論文を書いたりしている。
1900年3月には家族と共にサンタ・バーバラに移っている。この頃から彼の体重も回復し、日焼けのする健康体に戻りつつあった。1900年12月には待望の長男(Irving
Norton Fisher)が誕生している。1901年秋学期より復帰する旨の連絡をエールに送っている。完全に回復するまで6年もかかっている。最初の3年間は論文を1本も書いていない。1901年秋の初めにNYに帰る前にオレゴンのサレムで牧師をしている、親友のエリオットに会っている。エリオットは彼の唯一の友人であり、彼の回復を祈り、新鮮な空気の重要性を彼に伝え続けた。彼らは初めて1888年にニュ-ヘブンで初めて会った時のように多くを語り合った。フィッシャーのこの間の経験は彼を健康問題に向けさせることになった。1900年代の数年間は健康問題に関しての論文やスピ-チをしている。
この頃、健康と食事について研究している。教えることに手抜きしていたわけではないが、重視しなかった。彼はエール大学振興化委員会の委員長をしているが、これが大学行政に関わった唯一の例である。同僚は不満だらけで、彼はエールの仲間からは相手にされなくなった。
1906年秋にエールに居ずらくなり、ワシントンのスミソニアン研究所で人材募集をしていることを知り、応募したが上手く行かなかった。噂によれば、エール大学出身の人やHenry Stimsonなどが、フィッシャーは独善的で理想主義者であり、相応しくないと反対したからと言われている。
彼の大学での評判は悪かった。大学には講義のある時と何か会議のある時にのみ自宅から自転車で来て、終わればすぐ自宅に戻るという生活であった。彼の仕事場は自宅であり、パートタイムの秘書を雇い、彼らのために机を用意した。大学での悪評を一向に気に留めず改善する努力もしていない。
自宅の大邸宅460には毎年多くの著名人が集まった。彼はニュ-ジアジに住む母親の金銭的サポ-トを続けた。弟ハ-バ-トは対人関係がうまくできなくて兄に頼り切りであった。今で言う「引きこもり」であった。
1910年にフィッシャーは43歳になったが、この時期までには米国以外でもよく知られた素晴らしい経済学者になっていた。一般国民には健康問題、運動、新鮮な空気、ダイエットなどに関して新聞などにエッセイを書いていたので、社会問題の研究者として知られていた。彼の時間、エネルギは2/3を経済学の研究に、1/3を健康促進についての社会問題に充てられた。彼の数学的能力からして、もし全ての時間を経済学研究に充てていれば経済学の発展にさらに貢献できたかもしれない。
⑤ 株式投資の失敗
彼は株式取引にも積極的であった。株式投資は個人に利益をもたらすと同時に国の発展に寄与すると考えていた。株を買えば企業に資金を提供することであるし、企業はその資金でもって成長することができる。株価は時には下がることもあるが、そのような場合には連邦準備が公開市場操作によりマネ-サプライを増やし、株価を安定させる。彼はその信念の下に大恐慌の起こる前には大量の株式取引をしていた。その結果、後に株価暴落による損失、それに加えて税務当局から申告漏れを指摘され多額の追加納税に追い込まれることになる。フィッシャーは信用取引が中心で、子供に株を分け与え、それを一部現金化し、それで信用取引をするように勧めている。
実際には連邦準備は株価暴落に対して積極的な金融緩和をしなかった。また、それ以前に連邦準備が過度の金融緩和により株式市場にバブルを起こしていることにも気付かなかった。
フィッシャーに大きな転機が訪れる。1929年8-9月に株価は一進一退を繰り返した。1929年9月3日には新高値を更新した。9月5日には暴落を予想するコメントも表れた。当時の著名な株式アナリスト、バブソン(Roger Babson)は次のようなコメントを発表した。「株価暴落が始まり、主要株価は大きく下がり、ダウジョ-ンズで見て、60-80ポイントは下落し、工場は閉鎖され、失業は増加し、----大きな悪しき循環が発生するであろう」。
この発言に対して、フィッシャーはNYタイムズ、9月6日に「バブソンの株価暴落予想を否定する」というタイトルの記事を載せます。数日前に彼が資金援助を続けている年老いた母親に株式投資で儲けているから、月450ドルを600ドルに増やすと伝えたばかりであった。株価の下落直後、1929年10月14日のNYタイムズにおいて、フィッシャーは次のような発言をしている。
「私は株式市場の安定と現在の高値を強く信頼している。例えば、今日あるいは数週間前のもっと大きなショックが株式市場に発生したら、驚くであろうが、株価の変動は定期的に繰り返すものであり、すぐに回復するものである。私は数ヵ月以内に株式市場は今よりもさらに高値になると予想する」。
と分析し、株式全体としての基調は健全であると繰り返し楽観を展開した。12月6日にはニュ-ヘブンの商工会議所では、「株式の暴落は人びとが借入により、とくに信用買いに走り過ぎた結果である。市場は本来の価値よりもはるかに過小評価されている。新規の購入者がこの事実を確信するにつれ、1929年の高値を目指して上昇に転じるであろう」と演説をしています。そして、自信こそ大事であり、「我々は自分を信じなければならない。そうしないと本当に不況は来る」と述べています。
しかし、彼の持ち株も軒並み暴落し、またその大半を空売りの損失を埋めるために売却を余儀なくされた。フィッシャーは妻の姉、キャロラインから借金をすることを決断します。
4月には義姉のキャロラインに窮状を訴えるべく、列車でカリフォルニアのサンタバ-バラに向かいます。姉さんとしては妹が可愛くて、また心配でなりません。心配する妻、マージにカリフォルニアから次のような手紙を送っています。
「姉さんは非常に良くしてくれた。彼女はただ、ただ愛情のためにしてくれた。とくにあなたのために。姉さんは厳しい条件を出すこともあったが、それは不当なものではなく、終始同情的であった。このような煩わしいことを起こしてしまったことを申し訳なく思っている。しかし、私は姉さんは何が起きようともうまくやってくれることと信じている。もし、私の甘い考えが間違っていなければ」。
1931年にフーバ-に手紙を書きその後彼に会っている。さらなるデフレを止めるために連銀が貨幣供給を増やし、金利を下げ、各銀行が貸出金利を下げることを提案している。このアイデアは今日の観点からすれば正しいものです。
他方で彼の財政問題はますます悪化していった。その結果、これまでのようにお手伝いさんやスタッフを抱えることができなくなり、家事の大半は妻のマージに委ねられた。今まで何もする必要がなかった人が炊事、洗濯をみな自分でこなさねばなりません。フィッシャーは全くそのような事情にはノー天気です。彼の大きな邸宅も子供たちだけのガランとしたものになった。しかし、まもなくその家も売却され、出ていくことになった。
この困難な時期においても、ただ、救いはマージとの仲は良好であり、離婚にもいたらず、彼は出張先からはいつも愛情溢れる手紙を書いている。1932年6月24日の39回目の結婚記念日には永遠の愛を誓う感動的な手紙を書いています。
しかし、心労の重なったマージは1940年1月に心臓発作で亡くなります。彼女は小さなアパ-トに住むよりも、墓地の静かな環境を選んだのかもしれないね。フィッシャーの嘆きは想像を絶するね。ここから、彼の暴走が始まります。
⑥ 晩年
彼はいつもいろいろな分野に関心をもった。1943年には地図の作成に新たな改良を加えることを思いついた。二次元の地図と3次元の地図をどのように一致させるかという、長らく地理学者を悩ませてきた問題を解決する方法を見つけた。彼はそれを20面体世界地図とよび、その版権をとり商品化し、一儲けしようとしたが、結局お金にはならなかった。
1944年にはウオーレン・ハンタ-という怪しげな自称医者と知り合います。彼はフィッシャーの自尊心をくすぐるように媚びながら近づいてきて、年12000ドルの報酬を払うから彼の会社の顧問になってくれるよう依頼します。しかし、結局何も支払われなかった。
1940年にルーズベルトが禁酒をしなかったことに、腹を立てた。1945年に妻の姉キャロラインが死亡したことにより、100万ドル以上に膨れ上がっていた彼の債務はすべて免除されることになった。これで1930年以降常に付きまとっていた負債の悩みから完全に解放された。
8月にハンターがフィッシャーに大学教育を受けられなかったが何とかして終了証明を求めている人が多くいるとして、彼らに学位の販売をしてはどうかと持ち掛けた。偽学位の発行である。推定で225万ドルの儲けになると言った。母体となるUniversity of
Experienceなるものは存在せず、ほとんど詐欺である。マージの死後彼の判断は完全にバランスを欠くことになった。
1945年初めには折り畳み式の三脚を考案し、シア-ズなどに販売している。彼はまた、ドクターガーソンの勧める健康法にすっかりほれ込み、彼と親密になった。ガーソンは彼のアイデアを出版しようとしたが、うまく行かずにフィッシャーに助けを求めてきた。フィッシャーは何度か書き換え、知り合いを辿りながらようやくある雑誌に掲載されることになった。彼がほとんど書いたというようなものであった。
1945年の9月と12月に下腹部に変調をきたすようになった。しかし、彼はガーソンの食事療法を守っておればすぐに回復すると信じていた。フィッシャーは他の専門家の診断を受けることもなかった。一時的に良くなり、1946年2月27日の79歳の誕生日にはこれはガーソンの食事療法のおかげと述べている。彼は自尊心の強い人で決して自分のマイナス面を認めようとはしなかった。マージが生きていればもっと他の療法を受けさせたはずである。
1946年の半ばにはフィッシャーは彼のアイデアを実行に移す機関として「フィッシャー財団」を設立し、彼自らが総裁をつとめ、その主要目的は経済的、貨幣的研究することを考えていた。彼はその設立の募金を呼び掛けた。ハンターは100万ドルの寄付を申し出た。彼はその金を偽学位発行によって集めようとしていた。結局募金は上手くいかずに、この財団は立ち消えとなった。
1946年の秋にはフィッシャーの体調に変化が現れた。9月にレントゲン検査を受けると、ポリ-プができていることが分かった。医者は悪性のものではないと診断したが、レントゲン検査だけでは確定できない。彼の息子は入院して精密検査を受けるように説得したが、自分は大丈夫であるとして、拒否した。もし、この時点で医者が癌であると正しい診断を下して手術を受けていればもう数年長生きできたかもしれない。
秋の深まりとともに、彼の体調は悪化、痛みと睡眠障害に悩まされ、体重は減っていった。彼の信頼するドクターガーソンはろくに診察もせず、食事療法を続ければ数週間で回復すると言うばかりであった。フィッシャーはこれは単なる瘤であり、ポリ-プでもなければ、癌でもないと自己判断をした。
しかし、この頃には彼の体力は極端に落ち、痩せこけ、顔色は黄色味をおびていた。息子たちの強い説得でようやく入院した。その前に写真を撮ったが、あまりにやつれた姿で息子たちはその写真を後に焼却した。
彼が理事を務める、ゴータム病院に入院した。大腸癌が肝臓にまで拡がり手を付けられない状態であり、余命数週間と診断された。医師はもう少し早く、6ヵ月前であれば手術もできたと伝えた。このことはフィッシャーには伝えられなかった。フィッシャーに長らく健康指導してきたドクターガーソンは入院したフィッシャーに会いに来ることもなく、患者としてのフィッシャーを見捨ててしまった。
ハンタ-も彼の見舞いに来ることはなかった。彼はフィッシャーに財団設立に100万ドルの寄付を申し出ており、フィッシャーをはじめ多くの人から借金をしていた。彼は詐欺罪で捜索を受けていた。フィッシャーは財団設立が不可能と知り大きなショックを受けた。病は進行し、フィッシャーも最後を悟るようになった。息子にやり残した仕事はまだまだあると、未練を述べている。子供たちは何事も上から強制するワンマン父親は嫌いで反抗的になっていたが、この頃には弱り切った姿にすっかり父に寄り添うようになった。フィッシャーは最後に、自分を他の人たちには素晴らしい靴を作るが、自分の家族を裸足にしたままの靴職人のようだと、子供に述べた。
フィッシャーは最後の最後まで自分の研究を諦めなかった。トル-マン大統領に100%準備案の採用を訴えます。しかし、この頃のフィッシャーはもはや昔の彼ではありません。彼は失意の中、1947年4月29日に息を引き取ります。享年80歳でした。葬儀にはエール大学の傑出した経済学者であるにもかかわらず、エールからは誰も出席しなかった。シカゴの経済学者たちもフィッシャーを変わり者として相手にしませんでした。彼は愛する妻のマージと彼の娘のマーガレットの眠るニュ-ヘブンの隣に埋葬された。
どうでしたか、フィッシャーの生涯は。若いころは本当に苦学し立派な業績を上げた天才でした。彼の大学院で書いた博士論文Mathematical Investigations in the theory of values and pricesはあのポール・サムエルソンをして、「このような立派な博士論文は見たことがない」と言わしめ、その後も今日経済学者が必ず読まなければならない、『価値上昇と利子率』『貨幣購買力』『利子論』『好況と不況』などの非常に優れた著書を残しています。それは主として彼の生涯の前半になされました。後半はすでに述べたように非常に常軌を逸した行動に出ます。世間からは奇人、変人として扱われます。とくに株価暴落で大損をし、義姉に多大の借金をするも、それを大して苦にもしていない、大変な楽天家でもあった。妻のマージの苦労は大変であったと察せられるね。そんな父に子供たちは大反発して当然です。
天才とはそのようなものかもしれないね。わが大学でも教育方針として「とがって生きろ、丸くはなるな」と学生諸君には盛んに言っていますが、協調性があり、他者、とくに弱者への思いやりのある円満な人物の方が私は好きです。また、君の感想も聞かせてください。
以上の話は下記の2点を参考にしました。
① フィッシャー研究の第一人者による、Robert Allen, Irving Fisher: A Biography, Black well.1993.
② フィッシャーの息子によるもの、Norton Fisher, My Father, Irving Fisher, Comet Press, 1956
今、コロナ渦で京都も大変なことになりつつあります。嵐山も観光客が殺到して大変なことになっています。しかし、もう少し我慢をすれば落ち着くと思いますので、その時はぜひ会いたいと思います。
2020年8月1日
------- 先生、前期講義有難うございました。今学期はリモ-トで先生から毎週送られてくる講義ノ-トを読み、そしてレポ-トを書いて提出という大変な日々でした。しかし、おかげでよく勉強できたと自分では思っております。金融危機と金融政策の関係についてよく理解できましたし、コロナ渦で世界経済が停滞する中でも株価が暴落し、大恐慌のような状況になぜ陥らないかも理解できました。先生の講義の中ではミルトン・フリ-ドマンが良く出てきました。実はフリ-ドマンのことをゼミの先生に話したら、きわめて否定的なことを言っておられます。フリ-ドマンってどうなんでしょうか。
------- 連絡有難う。今学期は一度も対面することなく、リモ-トという異例の講義形態になってしまいました。しかし、よく最後までついて来てくれました。君をはじめ何人かの学生はメールで繰り返し質問もくれました。おかげで私自身が新たな見方を得たことも事実です。君たちのような学生ばかりだとリモ-トも悪くないと思いました。さて、フリ-ドマンですが、君のゼミの先生は非常に低く評価しているようだね。学問は常に賛否両論の意見が繰り返し起き、そして進歩するものですから気にする必要はありません。
フリ-ドマンに関して言えば、クル-グマンとシュウォ-ツの激しい議論のやりとりが、金融経済の学会誌で行われましたので、それを少し分かりやすく手を加えながら紹介しましょう。
クル-グマンの批判
まず、フリ-ドマンを否定するクル―グマンの意見から。
① 大恐慌を引き起こした責任はフリ-ドマンが言うように連銀にはない。
その理由はマネタリベ-ス(MB)は増加しているが、マネ-サプライは減少している。MBは直接連銀が増やせる(紙幣を印刷して供給すればすぐに増える)。つまり、MBの増加は連銀が積極的な金融緩和をしていることの反映であり、一方マネ-サプライの減少は経済が悪化し、貸付が減少し、その反映としての預金が減少しているからである(マネ-サプライは現金+預金であり、預金は民間銀行の貸付を通じて増加する、専門用語でいえば、MBは外生的、マネ-サプライは内生的)。
② 金融政策が大恐慌を終わらせたというフリ-ドマンの主張は間違。
大恐慌中金利はほとんどゼロであった。3ヵ月物の財務省手形の金利を図で示してみると1930年代はじめはほぼゼロに近い。つまり、短期金利がゼロの状況ではMB(紙幣、現金)と政府短期証券は実質同じものになる。したがって、中央銀行が買いオペによってMBで短期証券を銀行から購入してもその追加的MBを準備として積み上げるだけで、貸出を実行するという意欲は起きない。これはまさにケインズが『一般理論』を書いたときの状況であり、彼が金融政策よりも財政政策を重視する所以である。
③ マネタリズムというのは貨幣重視の考え方である(Money matters)。その代表者がフリ-ドマンであり、「貨幣量を経済状況とは無関係に一定量の貨幣を増加させる」ことを提案する。しかし、現実のデ-タを見ると貨幣増加率の変化は一定ではない。それは金融政策が裁量的(discretionary monetary policy)であり、貨幣量を目標とした政策ではないことが分かる。現実には中央銀行は実体経済の動向を予測し、金利を裁量的に動かす金融政策を実施している。1990年代のアメリカはこの政策できわめて安定した経済を実現した(Great
Moderation)。
そこで、クル-グマンはフリ-ドマンを次のようにこけ落とします。
フリ-ドマンを表立って批判する経済学者はいない。それはフリ-ドマンという偉大な経済学者にケチをつけることにより、その擁護者、熱烈なファンを非常に不愉快な思いをさせることになるからだ。
シュウォ-ツの反論
これに対して、フリ-ドマンを尊敬してやまないシュウォ-ツ女史はネルソンと共に怒りの烽火を上げます。
① 1930年代の連銀の無作為を批判するのであれば、それはフリ-ドマンがもっとも重視する、自由主義市場、政府の経済への介入否定、小さな政府の擁護、と矛盾するのではないか、という批判。これに対して、フリ-ドマンは政府(中央銀行を含む)が貨幣ストックの管理に重大な責任を持つと考えている。
② 1930年代連銀は積極的な金融政策をとらなかったというフリ-ドマンの主張に対して、クル-グマンはMBの動向を見れば、デフレに対処するために連銀が積極的に緩和策を講じていたことが理解できるという。しかし、学んだようにたとえMBが増加しても、貨幣乗数が低下しておればマネ-サプライの増加には繋がらない。貨幣乗数は銀行の預金に対する現金の保有比率(準備率)や民間の預金に対する現金の保有比率、から構成される。デフレが強く他方連銀の態度が曖昧な中で、銀行および民間が共に預金に対して現金の保有比率を高めていった。その結果、貨幣乗数は低下し、少々のMBの増加はマネ-サプライを増加させるどころか、減少させた。したがって、クル-グマンのように、MBの増加のみで連銀が金融緩和をしていたと見るのは誤りである。連銀の曖昧な態度(無作為)が貨幣乗数を激減させ、マネ-サプライを大幅に減らしたことを見逃してはならない。
③ マネタリズムはMoney maters(貨幣は重要である)ことを信念とし、インフレの制御に対しては金融政策が一番重要であることを、オ-ルドケインジアンと度重なる論争を通じてほとんどの経済学者に納得させた。ニクソン政権における物価コントロ-ルや所得政策を支持したケインジアンがいかに誤っていたか、それを厳しく批判したフリ-ドマンがいかに正しかったか、クル-グマンはこの間の実情についてほとんど知識をもっていない。このような知識レベルでフリ-ドマンを批判することは大きな誤りを犯す。
④ 金利がセロ近傍の状況下では、公開市場操作においてMBと短期証券は完全代替になり、MBが民間金融機関に渡されてもそれは貸出に回らず、銀行の準備金として積まれるだけであり、金融政策は全く効果がない、とクル-グマンは主張する。しかし、1930年代の米国や最近の日本の状況を見ればその考えが間違っていることが分かる。もちろん、単純に公開市場の対象を短期政府債に限定していれば、クル-グマンの言う通りかもしれないが、オペの対象を外国為替や長期債券に含めることにより、公開市場操作は総需要を刺激する効果は十分あると考える。
最後にシュウォ-ツは次のように結びます。フリ-ドマンを不誠実(dishonest)と決めつけ、またマネタリズムの金字塔である『アメリカ合衆国の貨幣史』は間違っている(slippery)、というクル-グマンの誤ったフリ-ドマン批判に黙っている分けにはいかない。彼が貿易論、国際経済学の優れた経済学者であることは認める。しかし、彼は金融経済についての知識は乏しく、過去のこの分野での論争にも無知である。もしこのまま黙ってクル-グマンの主張を見逃せば彼を不愉快にすることはなかったかもしれない。しかし、真実がそうなのだから仕方がない。
どうです。激しいやり取りですね。プロフェッショナルとはこのような世界で生きて行かねばならないのです。後日談ですが、この論争の後、しばらくしてシュウォ-ツ女史は亡くなり、エドワ-ド・ネルソンがその主張を受け継いでいます。他方クル-グマンはたとえ金利がゼロであっても、期待インフレを引き上げることにより金融政策の有効性を高めるという議論を展開し、フリ-ドマンに寄り添うようになりました。
今学期はいろいろ質問をくれて有難う。秋学期も今の感染状況ではどのようになるか分かりませんが、引き続き身体に気を付けて頑張ってください。質問は今後ももちろんOKです。
両者の論争は下記の論文によります。
Paul Krugman,
Response to Nelson and Schwartz, Journal of Monetary Economics, 55,2008
Nelson and
Schwartz, Rejoinder to Krugman, Journal of Monetary Economics, 55, 2008
2020年3月1日
------- 先生、お久しぶりです。10年前に卒業したMです。K君が昨年嵐山に行ったそうですね。僕も彼女と一度ゆっくりと行こうと思うのですが、どの辺が見どころですか。
------- M君、久し振り、彼女ができましたか、良かったね。K君は嵐山見物をせずに、鈴虫寺に行きました。君も4年間亀岡暮らしをしていたのに、嵐山にはあまり来なかったのですか。では、私の日々の散歩コ-スを中心に紹介しましょう。まず、渡月橋の北詰めから出発するのが良いです。桂川沿いを上流に向かって500mほど歩くともう突き当りになります。右手には大きな料理旅館がいくつも立ち並んでいます。この辺りの旅館はどれも高級で、私もほとんど行ったことがありません。中でも、その一番端の方にある「吉兆」という料亭はいわゆるVIP用で私には縁遠いです。ただ、この料亭では夏の夜には客に船遊びをさせており、芸者さんを乗せて静かに船遊びに興じているのを川岸から体操をしながら眺めるのは一興です。満月近くになると月が渡月橋の真上を通過します。これを眺めていると成るほど、渡月橋の意味が分かります。
突き当りが小さな茶店になっています。そこで行き止まりかと思いますが、その奥に湯豆腐屋さんがあります。ほとんどの観光客は気が付きません。川沿いをさらに上流に向かい、右手の崖をよじ登るように上がるとそこになかなか瀟洒な料亭があります。なんでも近衛家の別邸であったようです。料金もリーゾナブルで、彼女とお昼を食べるのもよいかもしれません。ただ、雨の日などは足を滑らせて川に転げ落ちるかもしれないので注意してください。
そこまで行かずに、茶店の所を右に石段を登っていきますと、すぐに右手に周恩来首相の来日記念の石碑がたっています。当日の雨の嵐山を詠んだ「雨中の嵐山」という漢詩が刻まれています。そこを左側にどんどん山道を登っていくと展望台にでます。保津川が眼下に見下ろせます。保津川下りの船が下っていく様子や、トロッコ列車が走るのが見えます。秋の紅葉時期がとくに良いです。松尾芭蕉もその絶景に感嘆したそうです。そこへ行かずにメインの道をまっすぐ歩いて行くと左手に角倉了以の像があります。彼は嵐山の河川整備をした江戸時代の豪商です。今でいう民間ディベロッパ-でしょうか。さらに足を進めますと大河内山荘の入り口に達します。ここは映画全盛時代の大スタ-大河内伝次郎が一山全部買い取って自分の山荘にした所です。中は広々しており、眺望もよく、抹茶付きの和菓子をいただきながら市中を見下ろし、しばしの休息をとるのに良いところです。
山荘の門を右に回ると「竹のトンネル」に入ります。そして、縁結びの野々宮神社に続きます。しかし、このル-トは観光客が一番多いところでお勧めできません。そこで、山荘前の道をさらに北へ歩くと、右手にトロッコ列車の嵐山駅があります。その左手に池があり、その向こう側に神社が見えます。御髪(ミハツ)神社で、髪の毛にご利益があるそうです。この池は初夏になると蓮の花が満開となり、とくに朝は見事です。また、この池の周辺には野鳥が多く、野鳥愛好家の人がカメラを三脚に据えてシャッタチャンスを実に気長に待っています。道がせまいので、当たらないように気を付けましょう。その先に常寂光寺があります。大原の寂光寺と間違える人も多いです。春の新緑、秋の紅葉時分がとくにお勧めです。そこを右に折れて50mほど歩くと大きな畑があります。これは景観を保つために京都市が管理しています。
その畑の反対側に落柿舎(らくししゃ)という、松尾芭蕉の弟子、向井去来の小さな庵が残っています。この前の狭い道を人力車が通り抜けていくのはなかなか良い風景です。その前を通らずどんどん北に向かって歩みを進めますと、右手にトイレがあります。トイレはここを利用するのが良いでしょう。ちなみにこのトイレは日本トイレ協会から「観光地最良のトイレ」ということで表彰されたようです。そこを先に進むと右側に竹材専門店があります。竹製品に興味があればここが良いと思います。冬なら温かい、夏なら冷たいお茶のサ-ビスが受けられます。その反対側に二尊院があります。
そこから左に行くとすぐに祇王寺(ぎおうじ)があります。苔が非常に美しいお寺です。平清盛の寵愛を受けながらも最後は捨てられた悲恋の祇王の尼寺です。数年前に来日した北欧の経済学者夫妻がこの尼寺にぜひ行きたいというので、案内しましたが、彼らの身体が大きくその分庭園が非常に小さく見えました。小さなお寺ですので、観光シ-ズンは避けた方がよいでしょう。夕方やシ-ズンオフに訪れて古の悲恋話に思いをはつるのも一興でしょう。その前の道は化野の念仏寺、さらには清滝、愛宕神社に続く愛宕参道です。春秋のシ-ズンには山から下ってくる登山客のグル-プによく出くわします。そこまで行かずに念仏寺の手前で右に曲がると瀬戸内寂聴さんのお家があります。このあたりは10年ぐらい前までは鬱蒼とした竹林に囲まれており、静かなのは良いが、治安の問題があるなと心配するぐらいでしたが、今はすっかりこの周辺は開拓されて新興住宅が立ち並んでいます。これって自然破壊だなと思ってしまいます。
話を二尊院のところまで戻します。そこを左に行かずに右に曲がると嵯峨釈迦堂(清凉寺)に出ます。その途中に、藤原定家縁の慈眼堂という小さなお堂があります。ここは源氏物語のフアンの方がよく訪れます。このお堂は町内(中院町)の人たちで管理されています。通常は閉まっていますが、隙間から観音様を見ることができます。その隣には瀟洒なカフェ(アリカフェ)があります。昨年店主が脱サラして開店したコ-ヒ専門店です。目の前で焙煎してくれます。焙煎したてのコ-ヒはすごく香りが良いです。100g単位で販売してくれますので、もしコ-ヒが好きだったら土産に買うのも良いかもしれないね。ハワイコナやブル-マウンティンなどの豆も販売しています。店主の話によれば、焙煎後2日ほど寝かすのが良いのだそうです。焙煎機の回る音を聞きながらコーヒをいただくのも良いものです。確かにここのコ-ヒは最高です。
その隣が釈迦堂です。釈迦堂は千本にもありますが、ここはそれと区別して嵯峨釈迦堂と呼びます。お参りをして少しこの境内をぶらぶらするのも良いと思います。数年前までは茶店があり、炙り餅などを食べさてくれましたが、観光客減で閉めてしまいました。ここの仁王門の立派さに驚くことでしょう。このように大きなものが2本の足でバランスよく建っていることに、また当時の建築技術の素晴らしさに驚嘆します。この門を出て真っすぐ南にすすむと出発点の渡月橋に戻ります。また、門を出てすぐ左側に森嘉という有名な豆腐屋があります。店の前にはいつも行列ができています。
京都にはいくつかの美味しい豆腐屋さんがありますが、私は京都府庁前に昔からある「入山豆腐」が大好きです。学生時代にその近くに住んでましたから、良く知っていますが、代が変わった今も古い家を改築もせず昔ながらの薪を炊きながら作っている頑固な豆腐屋です。先日近くを通ったら、リヤカ-で若おかみがカネを鳴らして売り歩いていました。どうしてこれ程の味を出す豆腐をもっと宣伝しないのかと、道端で余計なお節介話をしてしまいました。
さて話はそれましたが、このコ-スは一番観光客が少ない場所で、それでいてとても嵯峨野らしさを味わえるところです。渡月橋周辺は人、人でとてもゆっくりできません。京都に来たらぜひ連絡をください。再会を楽しみにしています。
2019年11月17日
------- 先生、Tです。お久しぶりです。今度の朝ドラ「スカ-レット」は先生の実家の信楽が舞台ですね。毎日喜美ちゃんを応援しています。最近は大恐慌の質問が多いですね。私も卒論に濱口、井上の金解禁について書きましたので興味深く読んでいます。結局は金本位制とはとんでもない制度だということですね。
-------- 朝ドラフアンのT君久しぶり。私も子供の頃の信楽を思い出しながら毎朝見てますよ。毎日荷車に積まれて運ばれる、ボ-リングボ-ルのようにいくつも丸められた粘土をそっと後ろからつけて引きちぎる悪ガキでした。一番後ろの粘土玉には子供の手形がいっぱい付いてました。
さて、金本位制はとんでもない悪い制度だったということだね。確か、君は卒論で城山三郎『男子の本懐』について書いたのだね。金本位制復帰を目指して、均衡財政を実現するために構造改革をし、財政支出を削減した濱口、井上両英雄の必死の努力は実は何だったのかというのが結論だったと思います。前回の質問で答えたように、大恐慌を引き起こしたのは金本位制であったというのが最近では定説になっています。イングランド銀行総裁ノーマンとニュ-ヨ-ク連銀総裁ストロングが互いに協力しあってイギリスを1925年に金本位制に復帰させますが、その金本位制にこだわったことが大恐慌を引き起こしたというのです。彼らは金本位制こそ経済発展の基本と理解しており、それは当時としては常識だったのです。だから濱口、井上も命をかけてまで金本位制を目指したのです。
ではなぜ、金本位制を経済安定の基本と考えたのでしょうか。第一次世界大戦後多くの国は戦費の拡大でインフレが重要な政策課題になりました。とくにドイツはひどかったことは君もよく知っていると思います。政府の財政拡大は大きなインフレの元になります。したがって放漫財政に歯止めをかけ通貨の乱造を避ける、そのために金を貨幣とすることによって財政、金融の規律を確保しようとすることが狙いです。イギリスは通貨価値の安定をめざして、しかも当時のイギリスの経済の実力よりも遥かに高い旧平価(1ポンド=4.86ドル)で金本位制に復帰したのです。日本も実力以上の旧平価で復帰しました。そのために厳しいデフレ政策を実施し、国民の反感をかったのです。
当時の人たちが考えた金に対する絶対的信頼などありえないのです。金平価は各国が自由に決定できますが、あくまでも約束事であり、その約束が破られない保証は全くないのです。事実1930年代初めにヨーロッパ経済が不安定になり、イングランド銀行から預金が流出し、ポンドよりも金の方が安全となり、金兌換が増加すると、イングランド銀行は金平価を守るために金利を引き上げざるをえませんでした。しかし、いったんポンドの価値に疑心暗鬼になるとポンド放出、金獲得の投機が拡大し金本位制を維持できなくなり、最終的に金本位制の放棄となるのです。実はアメリカも大量の金流出に悩まされ、不況の最中に金融を引き締めそれがさらに経済を悪化させることになったのです。
このように、ストロングやノーマンがその復帰に必死に尽力した、国際金本位制が実は世界デフレの原動力になってしまったことは誠に皮肉だね。
通貨の価値を守ることは中央銀行にとっていつの時代にあっても大きな使命です。しかし、金本位制にすれば守れるということではないのです。現在のように通貨と金が全く関係なくなった変動相場制の時代にあっても政府がしっかりと財政規律を守っていればそのような心配はないし、反対に政府に財政規律が欠如すれば、通貨価値は不安定になり、経済が混乱することは十分あり得るのです(確かにその意味では今の日本は少し心配だね)。ただ、今日でも金本位制に未練を残す政治家、学者は少なからずいます。黄金の不思議な輝きに魅せられる人はいつの時代にもいるものです。
これで今回は良いですか、引き続き元気に頑張ってください。信楽の子供はイタズラを通して小さい頃から粘土に親しみますから、粘土細工がとても上手です。私もそうでした。ではまた、質問はいくらでも「エーヨ」。
2019年9月5日
--------- 先生、回答有難うございました。この夏休み中、暑かったですが、実家に帰り大恐慌関係について勉強しました。先生の著書も読みました。固定為替が金融危機を起こしやすいということが理解できました。金本位制はまさに固定為替ですね。でもまだ金本位制の理解が不十分ですので再度教えていただけません。
---------- 質問有難う。今年の夏も暑かったね。しかし君も元気そうで何よりです。君の実家は確か信州だったね。私も大学院の学生だった頃、夏休みは塾のバイトでためたお金で信州の学生村、高遠にほぼ毎夏行っていました。
さて、金本位制と大恐慌の関係についてもう少し詳しく説明してほしい、というのが質問の趣旨だと思います。金本位制とは簡単に言えば金が貨幣ということです。大恐慌は当時多くの国が金本位制であったゆえに生じたと考えます。金の価格をその国の通貨で決めれば、各国間の通貨比率、すなわち為替レートは自然に決まります。たとえば、日本で金1gを2円、アメリカで金1gを1ドルと決めれば、1ドル=2円になります。これは金の価格を変えない限りつねに成立しますから、金本位制の下では為替レートは固定相場になります。この金本位制下での固定為替レ-トがマイナスの需要ショックを世界に拡散したと主張するのがテミンやアイケングリーンといった人たちです。彼らはフリードマンたちとは違って、アメリカの連銀の誤った政策がアメリカを不況に追い込み、それが世界中に拡散したという考えに反対します。金本位制がアメリカをあのような誤ったと思われる政策を必然的に導いたというのです。まず、テミンにしたがって、金本位制の定義からは始めましょう。
① 各国間、個人間の金の自由な移動が認められる。
② 国の通貨価値は金価格で固定される。
③ 国際間の貸付、調整をおこなうIMFのような国際機関は存在しない。
④ 国際収支の赤字国と黒字国の調整は通貨切り下げではなく、デフレによってなされる。これは、ヒュームという学者が昔に示した、「物価-正価フロ-メカニズム」です。赤字国の調整メカニズムは、通貨切下げ(devaluation)でなく、デフレです。すなわち、為替レ-トを変化させるのではなく、国内価格を変化させることによる調整です。
⑤ しかしここに、国際収支の赤字国と黒字国には非対称性が存在します。
つまり、赤字国は金を輸出しなければならない、他方黒字国は金を輸入できる。赤字が持続する国では金(または外国為替)が流出し、その国はもはや通貨の価値が維持できなくなる。そのような状況に陥れば海外からの貸付も止まり、戦間期の初めに生じたようなハイパーインフレが生じることになる。これに対して、黒字を続ける国はほとんどペナルティを受けないーもし追加的金準備が貨幣供給量を増やすことになれば、若干インフレが生じるぐらいである。
このように定義された金本位制の下で大恐慌はつぎのようにして始まったと考えられます。まず、その最初の切っ掛けは第一次世界大戦です。もっと広く言えば、そのショックはチャ-チルが「第二次30年戦争」と呼んだヨーロッパ各国間の対立です。その戦争により貿易相手国は変わりました。第一次大戦後、英国は落ち目、米国は金持ちさんに。つまり英国はもっている資産を売り払い、米国は英国やフランスに金貸しをするまでになりました。国家間の資本力が完全に変わったのです。そして、それに伴いそれまでの英国中心の国際間協力のネットワ-クが破壊されたのです。後に大恐慌に発展する景気下降はまず1920年代末の米国とドイツの引き締め政策から始まりました。1920年代には米国に金がドンドン流れ込むばかりで、米国から金は全く流出しなかったのです。これでは世界中の金がアメリカに集中し、他国では金が減るばかりです。残念なことにこの制度の下では米国は貯めこんだ金を他国に還流させる義務は全くなかったのです。つまり、金本位制の非対称性ゆえに米国にはなんの制約も課されなかった。その非対称性が米国のとる政策を決め、その政策が他国に影響することになったのです。
連銀は1928年初めに引き締め政策をとりました。それはNYの株式市場における投機を抑制するためであり、また先の金融緩和によって生じた金の流出を止めるためでもありました。先の金融緩和というのは、前回説明したように英国が金本位制を維持できるように、援助する目的でなされたものです。連銀は公定歩合を下げることにより、投資家がアメリカの資産購入から英国の資産購入にスイッチさせるために実施された。それはポンド需要を増やし、ポンドの価値を高めるためでした。
金本位制の下では金の流出は政策変更の重要なポイントになります。たとえ、その流失が米国のこれまでの大量に蓄積され金準備に比べて僅かな流失であったとしてもです。1928-29年の連銀の重要な目標は株式市場の過熱を冷やすことであり、景気を抑制することではありませんでした。当時の株式熱は私の著書の中でも説明していた通り大変なものでした。「隣のご主人は株で大儲けしたというのに、あんたは何さ、さっさと株を買いに行ってきな」というような夫婦の会話が交わされるような状況でした。しかし、連銀の引き締め政策は株式の過熱を抑えることはできませんでしたが、それは貨幣量の増加率を下げ、物価を引下げる方向に働きました。その引き締めは貨幣量の減少から推測されるよりも一層厳しかった。なぜなら、株式市場の取引のために必要な貨幣需要が増加し、他の経済活動に必要な貨幣ストックをそれだけ減少させたからです。貨幣量が100とします。そのうち60が株式取引きに用いられれば残りの40しか日常の経済取引きに用いることはできません。株式取引が活発になればなるほど、経済活動に必要な貨幣量は減っていきます。
つぎに当時のドイツ経済について説明します。ドイツは1920年代当時、資本輸入に大きく依存していました。それは戦後の賠償金支払いのために必要であったからです。それは、「移転問題、transfer problem」を解決するのにも絶対必要なものでした。しかし、ドイツはそれほど殊勝ではありませんでした。ドイツはさまざまな経済的、政治的手段を使って賠償金支払いの引き延ばし作戦にでました。そして最終的には免除ということで、引延ばし作戦に成功します。それで、流入した資本はドイツ経済が利用できる資源(resource)の純増となりました。資本流入はグロスで1919-31年にかけてドイツの国民経済の5%で、純増分は2%以上となりました。しかし、ライヒスバンク(ドイツの中央銀行)はこの資本流入は不健全であるとして、それを抑えようとしました。それで、1920年代末にはドイツ市場で利用可能な信用量は急激に減少したのです。
これに対して、英国は米国、ドイツとは対照的にデフレ政策に苦しんでいました。それは金本位制のためです。英国は1925年に戦前の平価で金本位制を再開しましたが、その平価を維持するために、国内経済を抑制せざるを得なかったのです。英国は戦前のように海外投資によって所得を得ることができなくなったので、需要が高まったとき、輸入に対して支払いが出来なくなりました。それで、イングランド銀行はバンクレ-ト(公定歩合)を引上げて短期資本を引き付けて金準備の維持に努めねばならなかったのです。総裁ノ-マンは金利引き上げのインパクトは実施には心理的効果の方が大きいと考え、実体経済に及ぼす効果は小さいと見ていました。しかし、彼のこの予想は間違っていたのです。前回にも説明しましたが、この金利引き上げは失業を増やし、1926年にはゼネストにまでいたったのです。金本位制維持を優先し、国内経済の安定を二の次にした結果です。
それゆえ、大恐慌はその出発点から金本位制の下で国際的に波及したのです。アメリカ、英国、ドイツの経済が収縮するにつれて、それは金本位制のメカニズムを通じて他国の経済を不況にしました。これらの国では不況により、輸入は減少しましたが、それは他方で輸出を減らすことにもなりました。さらに、1920年代末には金融引締めの下で各国は資本輸出を減らし、資本輸入を増やしました。世界の多くの国はこの固定相場の下で工業生産を大きく減らしましたが、物価も著しく低下しました。テミンは工業生産の減少は各国によって程度の差はあるが、物価の方はほぼ同じ率で低下していることを図で示しています。金本位制をとっている国はこの不況の影響を受けざるを得なかった。大恐慌の主要な伝達メカニズムは金本位制であり、したがって、金本位制の廃止が経済悪化を食い止める唯一の方法であったといえます。
金本位制からの離脱により経常収支と国内物価の関係は密接になりました。各国は通貨危機を悪化させることなく、金利を引下げたり、生産を拡大することができるようになりました。
単一国の切下げは、ある状況下では他国の経済を悪化させるが、統一的な切下げは世界中の金準備の価値を高め世界的な経済拡大を生じるのです。大きな経済資源と金準備を有する米国でさえも金本位制からの離脱は経済拡大のための必要条件でした。スペインは金本位制に復帰していなかったので大恐慌は生じなかったし、日本は1932年に大幅な切下げにより大恐慌を免れることができました。
その反対はフランスをはじめとする金ブロックの国です。1935-36年になるまで、不況に耐えざるを得なかった。大恐慌の影響がどれほど厳しかったかはどれほど長く金本位制に留まったかに依ります。テミンは金本位制は世界経済を混乱させた「ミダス王の手」である、とまで言います。
金融問題は結果的にラテンアメリカにまで拡散しました。アルゼンチンは1929年12月に金本位制を離脱しましたが、これにより厳しい不況の波から逃れることができました。ブラジルは英国とほぼ同時期に金本位制を廃止しました。スペインは金本位制を採用しなかったことで大恐慌の影響を免れた国として重要です。オ-ストリアのクレディット・アンスタルトの破綻と同時に、スペインの銀行でも取付が生じました。ごく少数の銀行が破綻しましたが、それは金融パニックと言うほどのものではありませんでした。スペイン中央銀行Bank of Spainは「最後の貸手機能」を発揮することができたのです。その理由は、①同行は大量の国債を保有しており、それを売却して現金化することができた。②同行は金本位性の制約を受けなかった。同行はペソの価値を守るために金利を引き上げざるを得なかったが、自由に貸出を増やすことができた。つまり、いわゆるバジェットの忠告を守ることができたのです。日本もほぼ類似の経験をしました。金本位制を短期間で廃止し、1929年の新内閣は世界的な物価下落に対応すべくデフレ政策を実施しました。この内閣はデフレの連鎖に気づく前に退陣し、新内閣は英国の金本位制離脱に追随して、1932年には円を40%切り下げました。貿易収支は好転し、日本の実質GDPはデフレ中にも減少せず、増加に転じたのです。鉱工業生産指数も上昇に転じ、銀行パニックは全く生じませんでした。
このように、金本位制を離脱した国は金融危機を免れることができたのです。しかし、金本位制であるにも関わらず大恐慌を経験していない国があるのです。それは何故か。この点について見ていきましょう。
イタリアとポ-ランドは金本位制であったが、実は金融危機を経験していないのです。クレディット・イタリア-ノはイタリアにおけるドイツ型のユニバ-サル銀行で2大銀行の一つでしたが、経済が悪化した1930年に破綻の危険に直面します。まず、持ち株会社により銀行の資産を引き取り銀行としての体面を保持します。しかし、この表面的偽装だけでは問題の解決にはならず、政府から大量の公的資金を受け取り、その見返りに持ち株会社と投資活動を停止しました。クレディット・イタリア-ノはこうしてユニバ-サル銀行から商業銀行に変換することにより破綻を免れたのです。
もう一つのドイツ型の銀行が1931年末に援助を求めた。類似の協定がBanca Commercialとの間で結ばれた。この銀行も大量の公的資金導入の見返りに短期金融のみを行う形態に変更しました。政府か積極的に金融システムの介入したことにより金融危機を避けることができたのです。
この種の政策が成功するには「秘密」が重要となります。秘密が守られたので、預金者はパニックにならず、引出しに走ることもなく、銀行から銀行へのパニックの連鎖を生じなかったし、リラが異常な売り圧力を受けることもなかったのです。政策決定はごく少数の人の手によってなされ、金融システム全体でどうしようということではなかった。この秘密行動はイタリアを支配していたファシスト政権であったからできたのだと思われます。投機にとって興味深い論点はこの秘密がこの種の制約された意思決定との関係でしばしば生じる利益誘導型の政策をもたらさなかったことです。
ポ-ランドにおいても、銀行危機の局面において類似の状況が生じました。そこでは、銀行危機の局面において秘密の協定はなかったが、問題銀行の国有化が緩やかに進められた。ポ-ランドの銀行政策に最初の試練が生じたのは農業危機の生じた1925年です。国家が問題銀行を国有化することで危機は乗り越えられた。1929年の経済悪化の始まりにもう一つの危機が生じました。世界の農業危機がポ-ランドにおける物価の下落を生み、農作物を担保にしていた貸出債権を不良債権にしました。そこで、政府が乗り出し国有化を行ったのです。1926年には民間銀行はポ-ランドの預金と投資の40%を占めていましたが、1934年までにはわずか20%になりました。ポ-ランドの政策は小さな秘密の金融グル-プによって実施されたのではない。それはイタリアのケ-スのように、大量の資金が少数の銀行に提供されたのではない。それは多数の銀行に対してなされた。それが効果を発揮できたのは政府が信用市場を完全に安定させるという強いメッセ-ジを発信したからです。
戦間期において政府が問題銀行を積極的にサポ-トした点はイタリア、ポ-ランドに共通しています。しかし、この全体的政策が実施された方法は両国においてほぼ正反対です。ただ、政府が介入した点では共通しています。これら両国に共通する政策はオーストリアやドイツの政策とは著しく異なります。オーストリアやドイツでは破綻銀行が他の銀行に吸収合併されるという方法がとられました。この方法が役立たなかったのは合併した銀行自身も経営に生き詰まっていたことです。イタリアとポ-ランドの銀行政策は巧みであり、大恐慌の最悪の事態を避けることができたが、しかし、両国はともに金本位制を採用しており、その結果、金本位制を離脱したスペインや日本と異なり、デフレを経験しています。
以上が大恐慌と金本位制の関係です。分かりましたか。そろそろ講義再開だね。夏休みは十分楽しめましたか。学生時代の夏休みは最高に楽しいものです。私のような年齢になると本当にそう思います。高遠でお世話になった家のご夫婦、トマトをもいでくれたお婆さん、食堂のべらんめ口調の元気なおじさん、川沿いの桜並木、とても懐かしく思い出されます。では、後半も頑張って。
2019年7月18日
--------- 先生、「バブルと金融政策」の講義面白く聞いています。とくに1927年の4ヵ国会談と1985年のプラザ会議は共にその後バブルを生じ、大きな不況を引き起したという点で非常に類似している、過度の金融緩和がバブルの十分条件という説明に納得しています。ただ、アメリカが金本位制のル-ルを破ったことが、イギリスを苦境に追い込み、1927年の会議に繋がったという説明は簡単で分かりやすいですが、本当はもっといろいろあったのでしょうね。歴史の裏話が。
----------- 講義に対するコメント有難う。27年の会談をもう少し詳しく説明してほしい、とのことですね。確かにこの点は重要ですが、焦点をボケさせないことと、時間の制約で割愛しました。この辺の事情はBarry Eichengreen, Golden Fetter,に詳しく説明されています。すこし経済史の話になりますが、日本語訳が出ていないので、以下にかいつまんで説明します。まず、アメリカのニュ-ヨ-ク連銀総裁ベンジャミン・ストロングとイングランド銀行総裁モンタグ・ノ-マンの関係から話は始まります。ストロングとは講義でも説明しました、フリ-ドマンが「もし彼が大恐慌中になお存命であれば、世界大恐慌は起きなかった」とまで述べたあの人物です。2人の関係については、Lester Chandler, Benjyamin Strong, に詳しく説明されていますので、この本に従って説明します。2人が初めて出会ったのは1916年にストロングがロンドンを訪れた時です。初めて会ったのに2人はすっかり意気投合し、その後毎年会うようになった。とくに夏の長期休暇を南フランスで過ごすことが多く、政治、経済、金融に関するさまざまな話題について語り合ったようです。ノ-マンはストロングの生まれる1年前の1871年に生まれている。2人はほぼ同じ年齢です。ノーマンの家系は典型的なイギリスのエリ-ト階層であり、祖父も父も銀行家であり、母方の家系も銀行家、つまり銀行の経営者です。そうした、エリ-ト筋の血を引くノ-マンがイングランド銀行の取締役、1918年には副総裁、そして翌年には総裁に上り詰めるのはある意味自然であったかもしれません。彼は若い時分から旅行が好きで、とくに新興国アメリカの魅力に魅せられ東から西と隅々まで旅しました。そこで、アメリカの経済や金融について深い知識を持つようになったと思われます。
彼らには共通点が多く見られます。共に独身で、生涯を仕事に捧げたこと、金融センタ-で長きにわたり責任ある地位につき金融の実態に精通していたこと、自国の利益を最優先する愛国者でもあったこと、金本位制度が最良の金融システムであると考えていたことなどです。両者とも戦争を体験しており、政府の中央銀行に対する圧力はいかに強く、インフレバイアスがかることも承知しており、中央銀行の政府からの独立がいかに重要であるかを身に染みて感じていました。したがって、金融政策は政治的問題を避け、経済の現実を直視し、その上で健全なプランの下に実施されるべき、と考えていました。
さて、これを前提に第一次世界大戦後の金融システムについて考えます。当時の主たる国際金融システムの問題は戦時中一旦停止されていた金本位制にいかにして戻るかでした。金本位制の利点は貿易赤字の国も貿易黒字の国も金の移動によって物価が変化し、均衡に戻るということです。講義ではつぎのように説明しました。戦後のアメリカは戦災の影響を受けず新たな新興国として経済力の発展はめざましく、輸出も大きく伸びました。これに対してイギリスは主産業の停滞が著しく輸出は伸びず、経常収支の赤字は増加する一方でした。金本位制のル-ルに従えば赤字国は金の減少、貨幣の減少、物価の下落、輸出の増加、輸入の増加、一方黒字国は金の増加、貨幣量の増加、物価の上昇、輸出減少、輸入増加となり経常収支の黒字は減少します。これが金本位制の基本的メカニズムです。それが、戦後うまく機能せずに一方的に金の流出がイギリスからアメリカに向かいました。その理由はアメリカが金の増加に対応して貨幣量を増加させないという「不胎化政策」を実施したからです。その是正を求めて1927年に4ヵ国の中央銀行家がアメリカに集合したというのが27年のロングアイランド会談です。ここまでは講義で説明しましたね。
ここに金本位制度そのものに欠陥があったのです。赤字国は金流出によって、必然的に貨幣供給量を削減するという圧力に晒されます。これに対して黒字国は国内の輸出業者が得た金をその国の通貨に変換することにより生じる貨幣供給の増加分を不胎化政策により、つまり債券を市場から買取ることによって消し去ることができ、このことに対していかなる制度的罰則を課せられることもないのです。このように、金本位制は黒字国と赤字国の間に非対称性の問題が生じるのです。金が増加すれば、貨幣量を増加させる、金が減少すれば貨幣量を減少させる、というル-ルが守られてはじめて金本位制は機能するのですが、この非対称性ゆえにアメリカがこのル-ルを破ったのです。
しかしながら、アイケングリ-ンによれば、このアメリカの例のように金の増加を不胎化し、貨幣供給量を増加させなかった国は多く、素直に金本位制のル-ルに従った国は1/3にしかすぎず、戦間期のもっとも金本位制が上手く機能したと言われる時期においてはこの数値はさらに少なくなり、金の増加に対して不胎化しなかった国は1928年で21%、29年で20%、30年で35%、31年で19%にもなるという調査結果を示しています。
イギリスの凋落がこの過程で重要な問題になります。戦前、イングランド銀行は国際金融の頂点に位置しており、イングランド銀行が金利を変更すれば他国の中央銀行もそれに倣うというのが常でした。また、他国が金利変更すればそれに応じて上手く対応するというイングランド銀行を中心とする国際協調が成立していたのです。
この安定した国際協調の関係が戦後おかしくなり出したのです。戦後英国経済は傾斜の一途をたどり、1926年の炭鉱ストにより英国の輸出は急激に悪化しました。ロンドンが産業不安に陥ると短期資本の流入もなくなり、資本勘定は悪化しました。通貨不安によりポンド預金に対する不安は広がり、イングランド銀行からの預金引出しが続き、ポンドに対する信頼は急速に失われていったのです。ドイツは1926年後半にはロンドンから600万ポンドの預金を引出しました。ドイツでも金の流出が生じていたので、ライヒスバンクは金利を上昇させました。その結果、高金利に魅かれた資金がドイツに流れ、この方面からも、イギリスの国際収支が悪化したのです。
フランスについてもフランの平価切上げが予想されたことにより、多くの資金がロンドンからフランスに流れたのですが、ロンドンから資金流出が続く事に対してフランスは冷淡でした。当時のポンドを中心とする金為替本位制はヨーロッパの多くの国をポンド中心の通貨圏に置き、それらの国をイギリスの勢力下におくというイギリスの野望であり、それはフランスを犠牲にしてまで実行しようとしている、それがフランスの理解でした。ポンドを準備通貨として保有する国が増加すれば、イギリスは準備通貨供給国となり、金本位制の規律は当てはまらず、自由な貸付が可能になる。そこで、1927年春ごろからフランスは為替準備として保有しているポンドを金に交換することを促進したのです。
5月に新総裁となったモロ-はイングランド銀行に対して3000万ポンドを金に換えるよう求めました。金の流出に悩むイギリスは金利を上げて資金流出を抑えるという政策対応を迫られることになりました。金利上昇が弱体化しているイギリス経済をさらに悪化させることをモロ-は百も承知でした。イギリス経済が悪化し、ポンド危機が起きればその影響はフランスに及ぶことも承知していたのに、そこまでしてイギリスを追い込みたいというフランスの執念は恐ろしいですね。しかし、このようなフランスの仕打ちに対してイギリスも黙ってはいられません。イギリスは戦時中、フランス政府に対して6000万ドルを戦時債として貸付けているのです。イギリス大蔵省はその債務の返済を強く求めることによってフランス銀行の容赦のない金変換要求に対応しました。
この脅しによってフランス銀行は3000ポンドの金兌換要求を6ヵ月間延期することにしました。モロ-はストロングにイギリスはこのような不当な要求をしてきたと訴えました。このイギリスとフランスの喧嘩を心配したストロングはまずアメリカの保有している1200万ポンドの金をポンドと交換し、その金をフランスに渡す(金交換要求に応じる)ようにしました。このように金本位制の存続が危ぶまれる状況の中で、1927年7月にアメリカのロングアイランドに英、仏、独、米の4ヵ国の中央銀行総裁が集まったのです。この会談はプラザ会議のように一堂に会して行われたのではなく、ストロングを中心に互いに個別に話し合いがなされたようです。その結果、最終的にはイギリスは国内信用を少し引締める、アメリカは割引率を低下させ、8000万ドルの買い操作を実施する、フランスはポンドの金兌換を延期する、ドイツもポンドを苦境に追い込むようなポンド売却を当面自重することになりました。この決定によりイギリスは大いに安堵しました。アメリカ、イギリス、フランス、ドイツはイギリスの赤字、他国の黒字を下げるために協調したのです。
しかし、この政策決定はアメリカの犠牲が他国に比べて大きすぎました。当時アメリカ経済自体は循環的には少し下降気味にあったとは言え、ウオ-ル街では過熱の兆候がみられました。そのような状況下でストロングは他の連銀を説得しなければなりません。この当時ニューヨ-ク連銀がアメリカの連銀システムを引っ張る立場にあり、地区連銀を統率するべき理事局の役割は非常に小さかったのです。したがって、ニュ-ヨ-ク連銀総裁ストロングの力は相当大きかったと言えます。
結果的にアメリカの株価はこの緩和を契機に高騰します。それにより理事局のアドロフ・ミラ-はこのアメリカの金融緩和を連銀75年の歴史上最悪の政策ミスであると強く糾弾します。ミラ-は経済学者であり、理事局の有力なメンバ-でした。彼はいつも理事局がないがしろにされ、ストロングの主導で連銀システムが運用されるのをいつも苦々しく思っていました。それでミラ-とストロングはこれまでもことごとく対立しており、そのたびにミラ-が押さえつけられていました。しかしこの時とばかりとミラ-はストロング批判の烽火を上げたのです。
ストロングもこのスタ-リング危機を契機にこのような金本位制(実質は金為替本位制)はメリットよりもディメリットの方が大きいと感ずるようになりました。金為替本位制の下では準備通貨が外国預金の密接なネットワ-クで繋がっており、一旦危機が発生すると連鎖的に各国に伝播するという危うさを有する。そこで、ストロングは金為替本位制ではなく昔の純粋な金本位制に復帰すべきであると考えるようになりました。そうすれば、少しの混乱で外貨預金を引き出し準備通貨供給国を通貨危機に追いやることも回避できる。ただ、世界全体で金の不足が生じる危険があるが、各中央銀行が法定の金のカバ-率を下げればこの不足は回避できる。
そこで、ストロングは1927年半ばより金為替本位制を廃止し、国際協調が必要でない伝統的な金本位制に復帰することを各国に呼び掛けたのです。アメリカは当時金を大量に保有しており、金本位制への復帰は全く問題がありませんでした。フランスも大量の金を保有しており、金為替本位でポンドの地位を高め、国際的影響力を強めようとするイギリスの野望を砕くことができ賛成でした。ドイツもライヒスバンクはマルクに対する上方圧力を抑えるために外国通貨を購入するよりも通貨が金の輸入点まで上昇することを認め、金塊の輸入をすることにした。
かくして、フランスとドイツは外国為替準備を減らしていきましたが、全体としては外国為替にたいする依存度は強まっていきました。欧州24ヵ国の保有する外国為替は1927年末には50億ドルを少し超す程度で1928年末には60億ドルに達した。全準備に占める外国為替の保有の保有比率は不変のままであった。このような状況の中で各国は国際協調から目をそらせてしまったのです。ここから、大恐慌は始まるのです。今回はストロングとノ-マンの友情、フランスとイギリスは犬猿の仲であったこと、フランスの金への飽くなき執着という裏話をしました。今月末の試験は頑張ってください。金融危機の話だけでなく、金融政策の伝統的手法と最近の非伝統的金融政策の比較といった基本的なことも良く復習しておくように。
2019年2月26日
---------- 先生、早速に質問に答えて下さって有難うございました。物価が下がることの恐ろしさがよく分かりました。母は今でも値上がり、値上がりと毎日ぶつぶつ言っていますし、父親はアベノミクスなんて全くダメだと言って私の意見を聞いてくれませんが、私は先生のいう事の方が正しいと思います。アベノミクスを支持します。それから、先生の言う労働生産性の低さはサ-ビス過剰にあるというのにも賛成です。今の職場でもお客さんの要求が強いのにはウンザリしています。愛想笑いをしなければいけないし、賞味期限順に並べている商品をわざと後ろから取っていくお客も多いので、いつも並べ替えをしなければなりません。閉店時間が過ぎてもいつまでも店内にいるお客さん、こちらの帰宅時間が遅くなります。消費者は又生産者であることを認識しないといけないと思います。
また、新しい大学も見たいし先生にも会いたいし、暖かくなったら行きます。
---------- M君、返事有難う。理解してくれたようで嬉しいです。デフレの怖さについてもう一点追加しておくと、デフレは為替レ-トを円高に導くということです。国際金融論で道和先生から習ったと思いますが、物価の高い国ではその通貨は安くなり、物価の低い国の通貨は高くなります。よく例に出される、マクドナルドのハンバ-ガ-の価格で説明しましょう。日本のハンバ-ガ-が200円で、アメリカでは2ドルだったとします。為替レ-トは2ドル=200円、つまり1ドル=100円が長期的に成立する望ましい為替レ-トです。そこで、今日本がデフレでハンバ-ガ-が100円になったとします。すると長期的に成立する為替レ-トは2ドル=100円となり、1ドル=50円です。物価が半分になったことにより、円は2倍の円高になります。したがって、日本がデフレになる、物価が下がると投資家が予想すれば、円高予想の観点から円買い、ドル売りが生じ、実際に円は上昇していきます。2000年代から円が上昇し、2011年の震災後に円が70円台にまで上昇したのは、アメリカに比べて日本の金融が相対的に引締め気味であった事に加えて、デフレ予想が強かったからだと考えられます。円高が日本経済に大きなマイナスの影響を与えることは君も知っての通りです。
生産性の低さの問題は君自身が体験している通りです。正月に店を開けるなどは昔では考えられないことです。正月に家族が揃ってお祝いできないなどは大変不幸なことです。しかし、今後ますます人手不足が深刻化すれば、このような慣習はなくなり、生産性上昇につながって行くものと思います。
毎日仕事に追われて大変な中、ゼミのことを思い出して質問してくれたことはとても嬉しいです。ぜひまた会いましょう。
2019年2月8日
---------- 卒業生のMです。先生が素晴らしい図書館だというので、先週の日曜日立命館の図書館を見に行ってきました。確かに素晴しいですね。それからキャンパスも歩きました。実は僕は立命を受験して落ちたのです。ここに合格していればもっと良い人生を歩めていた鴨。1階にあるタリ-ズでコ-ヒを飲んで帰ってきました。先生に質問です。① 先生のいうようにアベノミクスというのは本当に良い政策なのですか。② 物価が上がることは本当に良いことなのですか。③ 2%を目標にしていると言っていますが、どうして2%なのですか。
---------- M君、久しぶり。立命館の図書館を見に行ってきたとか。そう言えば君の家は金閣寺の近くだったね。あの図書館は亀岡にあるニチコンの創業者が私財45億円を投じて建設されたものです。とくにあの吹き抜けは素晴らしいです。図書館はどうしても暗く、陰鬱な気持ちになりがちです。あの開放感、それに比叡山、大文字山、の東山が一望できるのも素晴らしいです。
さて、アベノミクスについての君の質問ですが、ゼミではこの問題については何度もみんなと議論し説明しましたので繰り返しになります。①2000年の就職氷河期を覚えていますか。学園大だけではなく、ほとんどの大学で学生の就職が極めて困難になりました。失業率が急増し、自殺者も3万人を超えました。なのに政府、日銀の対応は無策でした。政府は競争原理の導入が必要だとか、自己責任だとか言って助けを求める企業、銀行に救済の手を差し伸べませんでした。日銀もゼロ金利を解除したり、「円高は国力の反映であり良いこと」など的外れの政策を実施しました。その後も世論の声に押されて少しずつ変化したものの基本的には大きな変化はありませんでした。海外の景気回復に伴い順調に回復軌道に乗ったかに見えた日本経済も政策の根本が変わっていなかったので、2008年のリーマンショック後の景気悪化は君も学んだとおり悲惨なものでした。そこに2012年12月に登場した安倍内閣です。翌年3月よりは本格的な金融緩和がはじまりました。その基本はまず物価が下がるデフレを止めるということでした。それが、君の2番目の質問です。
② 2000年ごろからずっと物価は下がり続けています。物価が下がって何が悪いのか。まず、借金をしている人には物価の低下は大きな負担になります。反対のインフレの場合を考えると分かりやすいでしょう。昔は百万長者と言いました。今では百万円もっていても長者と言いませんよね。私の若いころは下手に貯金するよりは借金して早く家を建てなさい、とアドバイスされたものでした。負債に苦しむ企業や住宅債務に悩む個人にとってデフレは大きな負担増加をもたらしました。また、物価の低下を見越して、住宅、自動車の購入を先延ばしする人も増えました。売れなくなると企業は販売数を減らします。そうすれば必要な労働者も減ります。リストラの増加です。当然賃金も下がります。正規社員よりも非正規社員を増やします。労働者はまた消費者でもあります。賃金の低下は所得の低下となり、消費が一層落込みます。消費者は価格の安い品を求めます。企業は価格競争に勝つために、コスト削減をして製品販売の増加に努力します。価格の低下は製品の劣化につながります。添加物、化学薬品も多数用いられます。環境問題に注意が払われることもなくなります。安かろう、悪かろうの商品を消費者は購入するようになるのです。これが、デフレの恐ろしいところです。
ともかくも2013年のアベノミクス開始以降、消費増税という逆風もあり、まだ2%の目標が達成されていないものの何とかデフレは解消されたというところです。では目標の2%になぜ拘るかという3番目の質問です。
③ それは他の先進諸国がインフレ目標を2%においているからです。もし、日本だけが1%であれば十分として、目標を1%にすれば、日本は今後も物価が下がると予想されて、円は上昇します。なぜなら物価の下がる国は輸出が増え、輸入が減るからです。黒字が増えるという事は国内では円に比べてドルが相対的に増加するからです。そして単純計算で1%の円高が進めということです。それにのり代という問題があります。もし、1%を目標にしており、不況が生じた時日銀が金利を1%さげたとします。その時の実質金利は0%で下げ止まってしまいます。2%のインフレ率であれば、実質金利はマイナス1%の低下になります。カネを借りれば儲かるという状況になり、企業の投資、家計の住宅購入を促進します。このような事情から2%を目標にしているのです。
以上で良いですか。このままアベノミクスによって景気回復が順調に進めば、雇用現場も大いに改善されると思います。失業者が多いと、労働者の立場はどうしても弱くなります。しかし、景気回復の中少子化の下で労働者不足が深刻になれば、過労死という悲劇がなくなるのではと思います。働き方改革が企業側からも言われるようになりましたが、それは労働者の待遇を改善しないと人が集まらないからです。本学の理事長も以前は「早めし、早糞」の人材しか採用しないと言っていましたが、最近ではそれはもう昔の話と言っておられます。そうしないと人材が集まらない時代になったということでしょう。これもアベノミクスの成果です。本学の尾崎タイヨ先生はいつも人道的立場からアベノミクスほど悪い政策はないと言っておられますが、アベノミクスにより今後の成長がさらに進めば、尾崎先生の心配される非正規労働者の増加、社会保障費の削減はなくなるものと思っています。
立命館に未練がありますか。それを言われると私も辛いです。しかし、卒業の時にも言ったように人生は社会に出てからが勝負です。本学の理事長がそのお手本です。頑張ってください。そして、また質問をください。
2019年1月25日
---------- 先生、明けましておめでとうございます。お久しぶりです。卒業生のTです。最近英語の質問があり、躊躇していました。萬平さん、いよいよラ-メンにチャレンジですね。それにしても銀行というのは酷いです。萬平さんはやっぱり物作りの人です。この正月休み久しぶりに本屋に行きました。それで、岩田規久男『日銀日記』、少し高かったですが、思い切って買いました。ゼミで勉強した『デフレの経済学』の著者で、大学時代を懐かしく思い出しながら、読みました。とくに面白かったのは、第4章の民主党員との国会論戦です。2%というインフレ目標が達成できないことに、いろいろな角度から岩田氏を攻撃してきます。それに対して国会では冷静に対応しながらも、自宅に帰ってから、あのバカ、アホ、と罵って自分を慰めている所です。岩田先生というのはかなり過激な人で少しビックリしました。
---------- 朝ドラフアンのT君、久しぶり、おめでとうございます。岩田規久男『日銀日記』を読んだとか。卒業しても勉強を忘れない君は本当に偉いです。私も発売と同時に買って読みました。政策現場がわかり、あまりにも面白かったので、一気に読みました。4章は確かに面白いね。大学で学生に教えるのと実際に政策に応用するのとでは大いに異なります。後者では国民の生活がかっているからです。自分の説明が十分理解してもらえず、苛立ちを覚えておられるのも良く分かります。
ゼミの時間によく勉強したように、物価が下がるデフレは経済を悪化させることを基本原理にして今のアベノミクスの金融政策が実施されています。その理論的根拠はフリ-ドマンのマネタリスト政策ですが、貨幣量が増加すれば物価が上昇するというものではなく、この質問コ-ナでも何度も説明しましたが、期待に変化を与えて経済を動かそうというものです。レジュ-ムチェンジという言葉で良く説明されます。これから政策の枠組みが大きく変化すると国民が認識することによる、期待の変化です。
その意味からすると今年10月に予定されている消費税の8%から10%の引き上げは大変心配です。これによって今までアベノミスの金融政策によって培われてきた、前向きの期待形成が一気に萎むことが大変心配です。事実前回の8%増税はアベノミクスの勢いを一時大きく削ぎました。確かに急速に膨らむ財政赤字は大いに心配です。しかし、景気が悪化して財政収入が落ち込むことはもっと心配です。少子高齢化の下で進展するさまざまな経済障壁を取り除く大胆な政策も必要です。定年延長による年金給付の繰り下げ、健康促進対策などによる急増する社会保障費の抑制、働き方改革による生産性の上昇など、さまざまな要因が考えられます。
この本からは君の言うように岩田氏というのは過激な人と思うかもしれませんが、私はこれまでこの著者の多くの本を読みましたが、きわめて冷静に分析される非常に優秀な経済学者として尊敬しています。この本にも書かれているように、同僚の突然の不幸に非常に心を痛めておられる人情深い人だという印象も受けました。
英語の質問は私が教えている留学生からのもので、気にしないでください。日本語でどのようなことでも良いので、質問、意見をください。君たちからの連絡が一番の楽しみです。
2018年8月20日
Aug.20, 2018
--------- Dear sensei,
First of all, thank you very much for sharing your
thoughts on the recent currency crisis in Turkey. Here is a few additional
thoughts from my side,
1. Central Bank's Point of View: As the Turkish Lira is
depreciating day by day, the central bank has no option without coming forward
to face the situation. Though, the president is acting like not understanding
the situation accordingly. Actually, the central bank of Turkey has been trying
to tackle the situation over last eight months through reducing/selling the
amount of US treasury bonds holding. At present, Turkey has 28.8 Billion dollar
investment in US treasury that was 50% more just eight months ago. So, Turkey
has already lost the status of a major US debt holding country (the country
that holds more than US$30 billion in US treasury bonds). For example, Japan
has around $1trillion investment in US treasury bonds. However, Turkey's
central bank's decision regarding interest rate and holding of USD are very
important but not sufficient enough to tackle the real situation.
2. Political Point of view: As you mentioned,
it's not just a monetary policy issues anymore. President Erdo?an
insisted that the Turkish economy was fundamentally sound and attacked the US
president for imposing sanctions and doubling tariffs on Turkey's steel and
aluminum imports. US is always expert in taking the favor of the situation. So,
Turkey must solve the situation through the political negotiation also. Until,
the reserve currency is USD, it's almost impossible to argue with them. We need
to remember, Turkish economy was growing more than 7% even in the first three
months of this year. So, even your economic condition is good, you will not be
able to keep it unless you are against the US's interests/policies.
Final Comment:
Lastly, I agree with you that this crisis could be
worse like Asian crisis as it would create a domino effect on other economy.
According to a report on The Guardian (13.08.2018), Argentina’s central bank
raised its key interest rate by five percentage points to 45% after a fall in
the peso and the South African rand was also hit in a day of turbulence that
saw the lira fall 8% against the -dollar. Considering all these actions taken
by other countries, the actions from both Turkey's central bank(reducing the
current account deficit) and government(market friendly economic policy to
regain the confidence, relations with US) are equally necessary to tackle the
situation successfully.
---------- Thank you Hasan
for your additional information on the Turkey's problem.
The current problem seems to be a little bit different
from the bubble -bust cycle we have learned in the spirit of Friedman-Schwartz
at class, because of the political matter, as you admit.
Please continue your study. Let’s discuss more in Sept.
Anyway thank you again for your early response.
2018年8月14日
Aug.14,
2018
---------- Hi Sensei, I’m a
graduate student from South Africa.
Hope
all is well! I wanted to see what your thoughts where on the situation in
Turkey?
It
seems like a currency crisis, but I’m not sure if it is brought on by financial
deregulation, but rather geopolitical issues. What are your thoughts?
---------- Thank you for a
question mail, Thabo.
It
surely remind us of reoccurrence of Asian crisis in 1977 you reported at my
class. Turkey’s currency lira rapidly declines in value against the dollar, 40
percent declined、which is intensifying the fly out of money from other
emerging countries. The currency of your country South Africa also rapidly
depreciates in value against the dollar.
The rapid
decline will cause the serious damage on the firms in Turkey, because they
borrow lots of money from banks in dollar or euro. The domestic banks do not
have enough money to make a loan, because of the shortage of savings in Turkey.
They financed the lending by borrowing from foreign countries. The financial
liberalization made Turkey to lend money easily from foreign countries. The
firms will have to repay for the money not in lira, but in the appreciated
dollar. It has the possibility of mounting the nonperforming loans.
If
it actually happens, it will cause the serious damage not only in domestic
banks but foreign banks, especially Spanish banks and French banks which has
reportedly prompted the loan to Turkey. That is why I am afraid of the repeat
of Asian crisis. US advise to raise interest rate to oppress the inflation and
to stabilize the exchange market. However President Erdogan gives the central
banks the strong pressure not to raise interest rate. He is afraid the rise of
interest rate will have a negative effect on the domestic economy. He
repeatedly insists the present turmoil is caused by Trump’s unreasonable
pressure to Turkey.
We
already learn the several lessons from the Asian crisis.
First
Turkey has to pay much more attention to the current account. The structure
reform will be needed to revitalize the domestic economy to boost the domestic
savings.
Second
IMF and neighboring countries including Japan should promptly cooperate to
provide the liquidity to Turkey just in case. Japan is also now affected by
yen’s increasing in value due to the uncertainty in exchange market. World
money rushes for safe money like Yen.
However
the most important is to improve the relation between two countries through the
dialogue between Erdogan and Trump, I think.
It
is very hot this summer here in Japan. Now you are busy to prepare for the
thesis for MA degree. But pay attention to your health. I welcome your
questions anytime.
2018年7月21日
---------- 先生、金融政策論の講義有難うございました。最初はあまり関心がなかったのですが、出席するうちに少しずつ面白くなってきました。内容はバブル、バブル崩壊、金融危機の連鎖は繰り返し起きるということで、金融政策の役割は大きいというものでした。とくに金融危機が起きた場合には積極大胆な金融緩和は必要ということでした。先生はフリ-ドマンを大変尊敬しているように思いました。
とくに、大恐慌の講義では、ベンジャミン・ストロングが亡くなり、それによって指導者を失った連銀の金融政策が混乱したことを上げ、フリ-ドマンの「もし、あの時にストロングが生きていれば、襲ってくる不況の波に積極的に対応したであろう、したがって大恐慌も起きなかった」と言う説明、さらに元連銀議長ベン・バ-ナンキのフリ-ドマン90歳の誕生日の祝辞「あなた方は間違っていない、あの大恐慌を起こしたのは私たち連銀の責任です。もう2度とあのような失敗は繰り返しません」を強調しました。先生はこのことは、現在のアベノミクス、日銀の金融政策QQEに生かされていると説明されました。
実は私はマクロ経済学の講義でフリ-ドマンの自然失業率仮説を習いました。それによれば、金融政策は実体経済に対して中立的であり、経済を良くしようと思えば、結局インフレを生むだけである、したがって、金融政策によって景気を良くしようなどと思わない方が良い、というのがフリ-ドマンの考えということになります。一体どちらが正しいのでしょうか。先生のお考えをお聞かせください。
---------- 最後まで熱心に講義を聞いてくれ有難う。講義では触れませんでしたが、君の質問にあるように、フリ-ドマンの貢献は大恐慌だけではなくて、1967年12月にアメリカ経済学会の会長に就任した時の会長講演、「金融政策の役割」で明らかにした自然失業率仮説も大変重要です。かれはその時すでにシュウォ-ツとの共著『アメリカ合衆国の貨幣史』を書き上げており、その中で金融危機時には大胆な金融緩和が重要と述べているわけです。しかし、この会長講演では一切この歴史的研究結果には触れていません。この講演は貨幣理論であり、金融政策の限界と潜在的可能性についての壮大なビジョンを描いたもので、この論文の引用件数はGoogle Scholarによれば7500回を超えています。今日でも大変影響力の大きい論文と言えるでしょう。ちなみに、この講演は翌年1968年にAERに掲載されました。ですから、今年は50周年に当たるわけです。
フリ-ドマンはこの講演で①「金融政策は何ができないか」と②「金融政策は何ができるか」を分けて論じています。①については、金融政策によっては、一時的にしか金利や失業率を変化させることはできない。②については、貨幣を経済攪乱の主因にしてはいけないと論じています。これは先の『合衆国の貨幣史』から学んだ教訓だと推測できます。そこでは、金融政策の誤りの実例が歴史的に述べられています。大恐慌はもっとも顕著な例です。したがって、この講演でも「金融政策は他の要因による経済的攪乱を相殺できる」と明確に論じています。だからと言って、金融政策を安定化政策の有力な手段として積極的に用いるべしとは決して述べていませんので注意が必要です。経済ショックの大きさがどのようなものであり、どの程度の大きさであるかを知ることは不可能だからです。彼は金融政策において成しうるものは、名目変数のコントロ-ルであると考えます。名目変数とは、物価、名目為替レ-ト、貨幣量です。この中で物価は一番重要ですが、中央銀行の実施する金融政策の間の関係はあまりにも長くて予見不可能である、したがって、貨幣量の安定した供給が大切である、と主張します。ただし、今日の大半の経済学者、中央銀行は貨幣量を目標とした政策には否定的です。
この講演ではフリ-ドマンは大恐慌のように経済にマイナスショックが生じた場合には金融政策によって是正することが可能であると述べていながら、金融政策の利用には大変遠慮がちです。その相殺する力が他の要因の力よりも弱いと考えたからかもしれません。しかし、講義でも説明しましたように、2008年のリ-マンショックの時には、バ-ナンキ率いる連銀は他国の中央銀行と協力して積極的な金融緩和を実施しました。銀行破たんを防ぐために、金融機関に緊急融資を実施し、銀行準備を増やし、大恐慌の時のように貨幣量が減少するのを見事に防ぎました。この時、連銀はフリ-ドマンの心配をよそに金融政策の力強さを見事に示したのです。この時、フリ-ドマンはすでに亡くなっていましたが、これを見たらとても喜んだと思います。
君の質問への答えになったでしょうか。ところで今月末には期末試験だね。この話を念頭におきながら、今日の非伝統的と言われる金融政策がどのようなもので、何を期待しているかを、これまでの講義ノ-トを復習しながら整理しておくと良いね。頑張って。
2018年4月20日
---------- 先生、お久しぶり卒業生のTです。左耳はもう治らないと医者から宣告されても最初は健気に耐えていたスズメちゃん、しかし最後に大泣きしました。私も大泣きです。さて先日職場で恒例の研修会があり、今年は日本の財政問題で講師の方は日本の財政がいかに危機的な状況にあるのかを話されました。本当に将来が心配になります。先生はどのように考えますか。
----------- 朝ドラファンのT君、久しぶりの質問メ-ル有難う。君も元気そうで何よりです。ちょうど1年ぶりだね。毎年新年度に研修会があるのだね。スズメちゃん見てますよ。あのシ-ンは本当に感動的だったね。さて、日本の財政危機の話だね。研修会で聞いた通り、現在国と地方の借金合計は1000兆円を超えています。その赤字の大部分を占めるのが年金、医療、介護の社会保障費です。基本的にそれらは企業や私たちが支払う保険料で賄われねばなりません。しかし、それだけでは十分でなく、現実には社会保障費の40%は税金および借金で賄われています。1970年には3.5兆円だった社会保障費はなんと今では120兆円を超えています。このような状況の中で国の借金、国債は年々増加し、その残高はなんと地方分を合わせると1000兆円を超えています。GDP比では240%と世界一の借金大国になっています。家庭でいえば完全な破産状況です。このような状況の中でも国が借金を続けれられる、つまり国債を発行の継続ができ、それも非常に安い金利で発行できるのは、どうしてでしょうか。
その理由は、基本的に日本は経済大国で国がデフォルト(債務不履行)に陥ることはないという安心感、いざとなれば消費税を上げれば良いと考えていることでしょう。また日本の個人金融資産が1500兆円あり、それが直接、間接に国債購入に向かっているのも事実でしょう。また、日本国債が国内で保有され、海外部門の日本国債保有が10%弱であるというのもギリシャなどのデフォルト国とは異なる点です。しかし、ここで注意を要するのは世代間負担の公平性問題です。赤字は最終的には将来の税金で埋め合わせねばなりません。最初に述べた社会保障費の増加に見られるように、その赤字の恩恵を受けているのは退職高齢世代であり、その赤字は現役世代が将来増税負担という形で賄われねばなりません。また、退職世代は貯蓄を取り崩し、現役世代は貯蓄を増やそうとする、ことを前提にすれば少子高齢化によって、今後日本の貯蓄は減少に向かうでしょう。すると国内で国債を消化する余裕はなくなり、海外部門に国債保有を頼らざるを得なくなるでしょう。
国債消化が国内で留まっている限り、次世代で国債償還となった時、増税すれば良いのです。次世代で増税が現実化することに当然反対する人も出てきます。しかし、次世代はまた国債保有者でもあります。彼らは国債のデフォルトを認めるわけがない、彼らは増税を受け入れると考えられます。したがって、増税の可能性がある限り、大量に国債が発行されていたとしても、それ程心配がない。将来の日本の増税余力が、大量に国債が発行されていても、国債市場が安定し、低利の発行が可能な理由と考えられます。
しかし、今後少子高齢化の進展によって日本の貯蓄構造に変化が出てくる可能性があります。日本国内で国債が消化できなくなると、国債引受けは海外部門に頼らざるを得なくなるでしょう。海外部門が国債を大量に保有するとなると、増税によって赤字を補てんするよりもデフォルトの方が良いではないかと日本国民は考えるのではないでしょうか。それが現実的かどうかは別問題として、海外の投資家がそのように予想する可能性は十分あります。また、そのような状況になれば国債金利も海外金利に合わせて高騰するでしょう。すると日本国債の信頼は一挙に崩れます。金融市場は不安定になり日本経済は大変な状況に陥ります。また、日本銀行が政府に「無利子の永久に返済義務のない」特別債務を発行してその資金で国債をすべて買い取ることも考えられます。これは元連銀議長のベン・バ-ナンキが提唱しているヘリコプタ-マネーの考え方でもあるわけですが、彼自身このような政策は金融政策を混乱させ、また政府主導となる危険もあり、非常事態以外は避けるべきと言っています。国債の日銀買取りは、このコラムでもデフレ克服のために重要であると述べてきました。しかし、他方で日銀の買取りは政府に財政規律を失わせる要因にもなります。
いずれにしても、国債の暴落、金融市場の混乱、日本経済の悪化、と言った懸念が現実に生じる前に、「ワニの口」と言われる(歳出と歳入の推移をグラフで示すと、歳出は年々拡大する一方で歳入は年々低下し、両者の差が拡大して行くから)日本財政の再建を考えることはとても重要です。来週からはスズメちゃんは高校生になるようで楽しみだね。仕事を頑張って、またメ-ルをください。
2018年3月23日
----------- 先生、先日の最終講義で先生のマネタリストとしての研究遍歴を話してくれましたが、そこで、メイヤ-と言う人の影響が大きかったと言っていました。彼はどんな人ですか。
----------- 最後まで熱心に私の講義を聞いてくれて有難う。メイヤ-というのは、私がこの大学に就職して数年後に留学した、カリフォルニア大学デービス校の先生です。ト-マス・メイヤ-(Thomas Mayer)といって、同僚や学生からはトムメイという愛称で呼ばれていました。とにかく研究熱心な先生でした。自宅にも呼ばれましたが、とにかく講義と研究以外は話さない人でした。デービスは農業関係の学部が中心で経済学部は今でもそれ程大きくはありませんが、その中心教員として経済学部を引っ張ってこられました。先日の講義でも言いましたが、私が研究を始めた1970年代はインフレが大きな経済問題でした。それに対して当時の主流派経済学であるケインズ経済学はどうしても対処できませんでした。そこにフリ-ドマンを中心とするシカゴ学派のいわゆるマネタリストが登場するわけです。ここまでは講義で話した通りです。
前回の質問で永守理事長やフリ-ドマンが若い頃大変苦労されたという話をしましたが、メイヤ-先生はそれ以上に波乱に満ちた子供時代を送っておられます。初めてサンフランシスコ空港でお会いした時から先生の話す言葉は他の人と大変違ってだいぶなまっているなと感じていました。実はメイヤ-先生はアメリカ生まれではなかったのです。1927年にはオーストリアのビエナという町で生まれました。その頃のオ-ストリアは第一世界大戦後の悲惨な経済状況にありました。そこにヒトラが登場し、小国オ-ストリアを踏みつぶそうと機会を狙っていました。ユダヤ人であったメイヤ-先生一家は恐怖に怯えていたそうです。1938年3月にヒトラはオ-ストリアに侵攻します。ただちに脱出しなければなりません。当時イギリスは難民の子供は無条件に受け入れることを決めていたので、まずメイヤ-先生だけが、イギリスに向かって出発しました。まだ10歳の子供ですよ。どれほど心細かったことでしょう。後に残った両親は、まず父親が11月に当局に逮捕され、48時間以内にオ-ストリアを去るか、ここで抑留されるかの選択を迫られます。父は脱出の方を選び、なんとかイギリス行のビザを得ます。父はまずなんとかしてイギリスに渡り母親のビザが得られるように画策しようと考えます。母親の方はオ-ストリアに残らざるを得ず、ビザを得る努力をしますが、結局ビエナのイギリス大使館は申請者で溢れてビザを得ることはできませんでした。母親は1941年11月にアメリカ行きのビザが認められ、ニュ-ヨ-クに向かいます。仲の良かった家族がバラバラに引き裂かれます。
父親はイギリスに入国できたものの、「敵国の人間」として抑留されます。メイヤー先生は教育環境のよくない学校を転々とさせられます。言葉ができない。学校では英語をまず習ったそうですが、役立たず、結局子供同士で遊んでいる中で英語を学んでいったと言っておられます。1942年に抑留されていた父親が釈放されます。まず父親はそれまでの教育環境の貧しさを嘆き、メイヤ先生をドイツ系の学校に入れます。そこは、かなりレベルの高い教育が行われていたようです。これまでの学校では戦争ごっこをして子供たちは遊んでいたが、この学校では戦後のヨ-ロッパをいかに再建するかなどの議論がなされていました。この学校には「経済学」という科目はカリキュラムにはなかったが、友達同士で政治議論をするうちに、経済学を学ぶことの重要性を悟ったようです。それで、友人に相談したら、彼は図書館からケインズの「一般理論」を借りてきてくれ、いま世界中の経済学者が注目している本らしい、と伝えてくれた。彼は読んでもチンプンカンだったが、何か重要なものがあると直感的に感じたようです。それで、「いつかこの本が理解できるようになりたい」と思ったそうです。彼が17歳になった1944年4月にようやくアメリカ行きのビザがとれ、ニュ-ヨ-クで母親と涙の再会を果たします。そこで、まず数ヶ月証券会社で走り使いのバイトをし、当時授業料の無かったNY市立大学のクインズ校に入り、その後18歳で徴兵され、1年後には除隊になり、特別年金を受けそれで大学生活を継続する。そしてコロンビア大学の大学院に進学、そこで、アルバ-ト・ハ-トとジョ-ジ・スティグラという立派な先生の指導を受ける。しかし、就職は容易ではなかったようです。大学院修了者は溢れ、雇用する人は少なかった。それに当時のアメリカでは就職は人間関係で決まっていたようです。幸いにも彼の先生のハートは交友関係が広く、財務省の研究部門に紹介してくれ、そこで、研究を続けます。しかし、彼にとってそこでの仕事は政府の意向に沿った研究、上司に逆らえない、と面白くなかったようです。それで小さな地方の大学を転々とします。当然講義の負担は大きいです。そのような状況の中で、「金融政策効果の遅れについて」という素晴らしい論文を書き、それが縁でデ―ビス校の教授に迎えられます。だからメイヤ先生はよくおっしゃいます。人間忙しい時ほど良い仕事ができる。デ―ビス校で若手が講義の負担がきつ過ぎると不平を言う時は、「私が一番良い論文を書いたのは、週に12時間以上も教えていた時だ!!」とおっしゃられるそうです。
メイヤー先生は1995年68歳で定年を迎えました。もともと定年制は無かったのですが、1990年初めカリフォルニア州は大変な財政危機に陥り、カリフォルニア大学では多くの教授が退職を求められました。メイヤー先生も年金の上乗せという条件で惜しまれながらデービスを去りましたが、その後も積極的な研究活動を継続され、一昨年88歳でその生涯を閉じられました。先生は他人を批判することはしなかった。私も拙い論文をしばしば先生に送ったが、informativeな論文であるなどと評価し必ず返事をくれます。若い頃大変な苦労をし、それなりの立派な経済学論文を書かれ、経済学の発展に貢献されたメイヤー先生は本当に尊敬に値する、まさに努力の人だと思います。質問があればまたください。では、頑張って。
2018年1月15日
------ 先生、卒業生のMです。新年おめでとうございます。新年の挨拶文を読みました。大変な人が理事長に来るのですね。厳しい生い立ちから頑張って大きな企業の社長にまでなられたとか。それって、ゼミで勉強したフリ-ドマンとよく似ていますね。母校がどのように変わるのか大変楽しみです。ところで、アメリカは昨年末に5回目の金利引上げを行いましたね。日本は合いも変わらずゼロ金利の継続。黒田総裁は我慢、我慢と言っていますが、大丈夫なのですか。
------ M君、久しぶり。元気そうで何よりです。そう、ミルトン・フリ-ドマンもそうでしたね。貧しいユダヤ移民の子として生まれ、厳しい迫害にもめげす母親が昼夜を問わず働き、彼を大学まで出す。入学した小さな田舎大学、ラトガ-スでは、幸いなことに、ア-サ・バ-ンズとホ-マ・ジョ-ンズという2人の優れた教師に出会う。経済学の面白さを教えるだけではなく、フリ-ドマンの経済状況まで心配し、奨学金の世話までしてくれています。フリ-ドマンの頑張り、貧困から脱出したいという情熱、良き師との出会い、これらが重なって芽が出て、知の巨匠ミルトン・フリ-ドマンという大輪の花が咲いたと言えるね。
さて、質問の本題、日本のゼロ金利継続のことだね。実はアメリカのSt. Louis連銀のブラ-ド総裁は数年前から、金利を下げているといつまでもデフレは続き、金利を上げると物価は上昇に転じるというこれまでの経済学と全く反対の主張をしています。今日大半の経済学者は金融政策は流動性効果を通じて実体経済に影響すると考えています。つまり、金融政策は実質金利を通じて投資財のみならず消費耐久財の需要をも変化させて実体経済に影響を及ぼすと考えます。大学時代マクロの講義で学習したIS-LM図表で示される金融政策の効果波及メカニズムはまさにこの金利チャンネルです。最近のニュ-ケインジアンモデルにおいてもこの波及メカニズムは金融政策効果の基本です。黒田日銀総裁もこの考えから金利をゼロにまで下げているのです。
ブラ-ドはあるモデルを使って、次のようなシミュレ-ションをしました。まず、下の図をみてください。政策金利iを2%から0%に下げたとします(緑の線)。すると生産xは一時的に上昇します(黒○と青○の線)。物価πもそれに応じて低下します(赤□とピンク□の線)。2番目の図は政策金利を上げた場合についてシミュレ-ションをしています。右半分をみてください。金利の上昇につれて物価は即上昇し、生産は一時的に減少るもののまもなく増加に転じることを示しています。
これはあくまでも模擬実験であり、この通りになるとはかぎりません。しかし、アメリカはこのブラ-ドの考えが受け入れられたか否かは定かではありませんが、政策金利を上昇させています。ブラ-ドはフリ-ドマンの教えを忠実に受け入れるマネタリストです。だから、貨幣量増加のもたら大きなインフレを案じています。他方黒田総裁もマネタリストです。日米のマネタリストが全く反対の政策を実施しているのは興味深いですね。
さて、私もこの3月で定年です。他大学ではまだ教えます。学園大にもしばしば顔を出します。メールアドレスも当分はそのままですので、ぜひまた懐かしい顔を見せてください。再会を楽しみにしてます。
2017年7月21日
--------- 先生、卒業生のMです。本日の朝刊によれば、日銀はまた2%物価目標の達成を延期したようですね。これで6回目の延期ということじゃないですか。本当にアベノミクスは大丈夫なのでしょうか。
---------- M君元気そうで何よりです。確かに日銀は昨日の金融政策決定会合で2%の目標を再度先送りしました。現在消費者物価は0%の前半にしかすぎません。しかし、一方で企業収益は史上最高、有効求人倍率もバブル期を超える状況にあり、その意味では非伝統的金融政策を中心とするアベノミクスはきわめて良い効果を発揮していると言えるでしょう。
ここで、もう一度アベノミクスについておさらいをしてみましょう。2013年にアベノミクスが開始される前には、日本経済の長期にわたるデフレ不況は構造的問題と循環的問題の両方を抱えていると、海外の経済学者からは指摘されていました。構造的問題というのは日本には独特の文化、制度、規制がありそれが日本の生産性を落としている、循環的というのは日本経済全体の需要が不足している、という指摘です。両方とも即刻対処すべき問題ですが、どちらがより重要かというと短期的には循環的問題への対応です。具体的にはどのように対処するのか、君が今「マクロ経済学」の講義で学習しているように、需要を喚起する方法として財政政策と金融政策、の2つがあります。しかし、財政政策は日本の深刻な財政状況を考えるとそうむやみに使うことはできませんし、またその効果に疑問視する研究もあります。
そこで、金融政策ということになるのです。一般にどの中央銀行も国債を購入することにより、まず短期金利(日本ではコ-ルレ-ト)を低下させます。それにより長期の金利も順次下がり、需要が喚起されると考えます。しかしながら、金利はゼロ制約をもっており、それ以下には下がりません。すでに日本の金利はゼロに達しています。そのような状況下でどのような金融政策の方法があるのか、この点に関して、クル-グマンやウッドフォ-ドといったアメリカの著名な経済学者は、たとえ金利がゼロに達していても人々の期待に働きかけることにより、実質金利を下げることができる、と指摘しました。
また、最近ある学者は、大胆な金融緩和を実施することで、これから経済は上昇軌道に乗ると人々が予想するようになれば、消費者はそろそろマイホ-ムを持とうか、自動車をハイブリッドに乗り換えようか、キッチンを改装しようか、とかさまざまな夢を膨らまし、他方企業もこのような消費増加を予想して、新しい工場の建設、機械の増設に踏み切るはず、そして、経済は本当に成長する、と指摘しました。
本当にそんなにうまく行くのでしょうか。最もな疑問です。実はその成功事例があるのです。このコ-ナでも何度か取り上げてきましたが、1930年代の大恐慌からの回復です。1933年3月にル-ズベルトが第40代アメリカ大統領に就任します。と同時に経済は急激に反発します。それは「レジ-ムシフト」が生じたからです。レジ-ムシフトとは政策の枠組みがこれまでと大きく異なり、人びとがその変革を自覚することです。彼は大統領に就任するや、その2日後に全国の銀行を一斉に一時的に閉鎖します(Bank Holiday)。金融不安に駆られ、銀行に殺到していた預金者の頭を冷やします。
また、彼はラジオを通して(炉辺談和)国民に自分の政策を分かり易く語りかけ、国民とのコミュニュケ-ションをとても大切にしました。例えば、ある記録によりますと、「親愛なるアメリカ国民の皆さん、物価が下がったことにより、借金の額よりも返済の額が増えて困っておられると思います。心配はいりません。私はすぐに物価を上げて、返済する額を借りた額に同じになるようにします。私に任せてチョウダイ」(超意訳)。この彼の巧みなコミュニケ-ション能力がレジ-ムシフトを起こした、という人もいます。しかしポイントは「言葉」ではありません。行動が伴わないといけません。大事なのは彼が金の価格を上げ、貨幣量を拡大させた、という行動です。
ルーズベルトは4月には金とドルの兌換を停止します。それにより為替レ-トは低下し、木綿の価格はなんと90%も上昇します。さらに翌年の1月には1ドル=35ドルにして金本位制に戻ります。金価格の切上げによって海外からの資金流入は急増します。また、欧州の政情不安はアメリカへの金流入を加速します。このように急増する金に対して財務省は不胎化政策をとらず、貨幣量の増加をそのままにしておきます。アメリカは農業大国です。平価が下がり、貨幣量が増加すると、農産物の価格の上昇が期待されます。それは農民の所得拡大を意味し、消費、投資を増やします。1933年からは自動車の販売が急増しますが、それは主として農民によるものである、という新しい研究もあります。また、物価の予想を測定した研究もあります。それによりますと、1930年代は初めマイナス(デフレ予想)であったものが、1933年にはプラス(インフレ予想)に転じています。
インフレ期待の高まり、それと所得増加への期待、それらが相まってアメリカ経済を不況の底から脱出させたのです。まさにレジ-ムチェンジが起きたのです。それはル-ズベルトの口先だけではなく、貨幣量が現実に増加したことによって生じたと言えます。
そこで、アベノミクスの現状です。2013年4月から始まった、黒田新日銀総裁による異次元金融緩和は、まず過大に評価されていた為替レ-トを正常な水準にまで下げました。そして株価も大きく上昇しました。しかし、その後は、中国経済の減速、原油価格の下落、消費増税の影響もあり、2%という物価目標は今なお達成されておらず、今回の達成時期の延期になった次第です。こうした状況の中で、アメリカは金融緩和からの転換をはかり、欧州もその時期を探りつつあります。わが国だけが大量の国債を抱え、なおも金融緩和を続けるという、黒田日銀に批判の目が向けられているのは事実です。レジ-ムチェンジの重要なポイントは、インフレ期待、所得増加への期待です。失業率の低下、企業収益の高まりの中で、これらの期待は高まりつつあります。また、今月から日本銀行の政策を決める審議委員2名が任期により退職され、新たな委員が2名加わりました。退職された2名の方は黒田総裁とはかなり意見を異にされることが多かったのですが、今回新たに審議委員になられた方は、就任会見の記事を読む限り(http://www.boj.or.jp/announcements/press/kaiken_2017/kk1707b.pdf) 2%物価目標達成に強い意欲を持っておられます。この新たな展開の中で、今後日銀は一層の金融緩和をはかり、レジ-ムチェンジを起こすものと期待できます。
さて、盆の休みはどうするのですか。また、時間があれば大学に遊びにきてください。今年の夏はどこにも行く予定はなく、ほぼ毎日大学に来ております。話の続きをしましょう。
2017年5月13日
---------- 先生、卒業生のTです。みね子がお母さんから送ってきた、手作りの洋服を受取って泣いてましたね。学生時代、亀岡で一人暮らししていた時を思い出し、もらい泣きしました。ところで、質問です。先日職場で経済の研修会があり、講師の方がマネタリストの考えはもう過去のものである、フリ-ドマン自身が自らの誤りを認めた、と話されていました。卒論で頑張った者としては、納得できません。どうなんでしょうか。
----------- 久しぶりの質問メ-ル有難う。君も元気そうで何よりです。奥茨城のみね子の話だね。私も毎朝出かける前に見ています。NHKの朝ドラはいつも面白いね。さて、今回はフリ-ドマンの話だね。講師の方が言われたのは、フリ-ドマンが亡くなる直前に雑誌に書いた記事の一文「貨幣量を目標とする政策は上手く行かなかった。今では、この政策を昔ほど強く推奨するかどうか分からない」(フィナンシャル・タイムズ紙、2003年6月7日号)に基づいておられるのだと思う。確かに、フリ-ドマンのこの発言は多くの反マネタリスト派に取り上げられました。中でもフリ-ドマン批判を繰り返してきたW.キ-ガンというエコノミストはここぞとばかり「90歳になってようやく白状した。これまでの自分の考えは誤りだと」と厳しくマネタリストを断罪しました。
しかし、その解釈は間違っています。フリ-ドマンもこの反響の大きさに驚き、即座に彼らの解釈の間違いを正しています。「流通速度は通常非常に安定しており、変動するとしても緩やかに変動するだけであり、MV=Pyはこれまでずっと経済のサーモスタットとして重要な役割を演じてきた」(ウオール・ストリ-ト・ジャ-ナル、2003年8月19日)。また、フリ-ドマンの直弟子である、D.レイドラ-の定年退職記念号に、彼の最後となる論文を寄稿している。そこで、1960年以降の貨幣量(M2)の変化の標準偏差をグラフにして「最近の数十年間を見ると、貨幣量の変動は小さくなっている。この間大きな経済の変動が起きなかったのは、明らかに貨幣量の変化が安定してきているからだ」と結論しています。
このフリ-ドマンの主張もずっと上手く行っていた分けではありません。1980年代には彼の予測はことごとくはずれました。当時彼はM1(現金+要求払い預金)を貨幣量の定義として用い、経済予測をしていました。それによりいくつかの大きな失敗をしました。例えば、1983年後半には貨幣量M1の増加率が急激に減少したことを受けて、「84年秋には深刻な景気後退が起きる」と予測し、多くの人を心配させた。しかし、84年は不況どころか、大変景気は良かった。マスコミは彼を「経済学者ではなく、1コラムニストにしか過ぎない」と酷評しました。この年、フリードマンは相当なストレスを受けたようで、10月には心臓発作を起こし、緊急手術を受けています。私もこの時期丁度カリフォルニア大学でマネタリストのトーマス・メイヤー先生の教えを受けていましたが、彼は金融革新の影響が大きいとよく言っていました。当時アメリカでは金融革新により新しい金融商品が生まれていました。とくにそれまでは無利子であった要求払い預金に利子が付くようになり、貨幣の定義が混乱しました。M1はマネ-タリ・ベ-スやM2よりも金融革新の影響を受けやすいのです。
フリ-ドマンも結局貨幣の定義をM2に戻すことにより、この難局を乗り切りました。それ以降のアメリカの連銀議長、ア-ラン・グリ-ンスパンとベン・バ-ナンキも彼の金融経済学者として高く評価しています。とくに、バ-ナンキはフリ-ドマンの90歳の誕生日に「あなたのお蔭で、今後連銀は経済政策の失敗は2度とおかしません」と祝辞を述べ、2008年のリ-マンショックを見事に乗り切ったことは、君もよく知っている通りです。明日は「母の日」だね。離れていると母親の有難みがよくわかります。大事にして上げてください。みね子、頑張れ。T君も頑張れ。
2017年2月27日
----------- 先生、ゼミのMです。春休みに入り、これからの就職のこと漠然と考えています。これからは、人口減少がますます進むと聞くし、他方では人口知能などが発達し、人はいらなくなるとも聞きます。僕たちの将来は一体どうなるのでしょうか。
----------- いま、やっと1年生が終了したばかりなのに、将来の事を考えるとは偉いです。君の問題に答えるために、良い本を紹介しましょう。吉川洋『人口減少と日本経済』です。大変分かり易く書かれているので、1年生の君にも十分理解できると思います。内容を簡単に紹介しておきましょう。
まず、同書は初めに、日本の人口は現在の1億2700万人が2110年には4286万人にまで減少する。なんと100年間で1/3になる、と驚くべきデータを紹介しています。そうなると、高齢者と現役世代(15-64歳)の比率は高度成長時代には11対1であったが、2013年には2.5対1、2030年には1.8対1、2060年には1.3対1となるようです。
君たちが今年度「マクロ経済入門」で習ったケインズが『一般理論』を書いた当時も、人口減が心配だったのです。それで、彼は『一般理論』で人口の減少は総需要の減少、とくに投資不足を心配しました。国民の貯蓄が投資に回ることによって経済は均衡します。貯蓄が増え、投資が減少すると、経済は過剰生産の状況に陥り、不況になります。そこで、ケインズは富の再分配により消費を増やすことを考えました。当時の社会は貧富の差が大きかったのです。マクロ経済入門では「限界消費性向は逓減する」ということを習ったでしょう。金持ちは1万円所得が新たに増加しても、1000円ぐらいしか消費しません。これに対して、所得の低い人は、1万円所得が増加すれば、9000円も消費に回すでしょう。君たち学生諸君のことを考えれば良いでしょう。お父さんが1万円送金を増やしてくれれば、そのほとんどいや全てを消費に回すでしょう。私も学生時代はそうでした。
また、ケインズは「需要の飽和」を心配していました。中学生の時に「エンゲル係数」というのを習ったでしょう。所得の高い家計ほど消費に占める食費の割合が小さいというもので、それが経済全体にも当てはまり、所得水準が向上すれば、食費に回される割合が小さくなるというものです。このようなことは食費だけに限らず、財やサービスにも当てはまるとケインズは考えていたのです。 では、この需要飽和の状況から脱出するにはどのようにするのが良いのでしょうか。著者はイノベ-ションの重要性を指摘します。著者は自動車を例に上げます。昔ながらのガソリン車だけなら必ず需要飽和に達するが、さまざまな新しいタイプの自動車が生まれている。その結果、需要(厳密には台数×価格)は増加し続けている。著者はこのようなイノベ-ションを「プロダクト・イノベ-ション」と呼んでいます。
これは需要面からの話ですが、供給面から見ると、人口減少は供給を抑制する可能性があります。著者の示す例は分かりやすい。労働者一人一人がシャベル1本ずつもって作業しているとすれば、確かにアウトプットは人口減少に伴って減る。しかし、そこにブルト-ザが入ってくると、労働者1人当たりの100倍の仕事をするようになるかもしれない。これがイノベ-ションによる生産性の向上である。また、『エコノミスト』誌の次のような興味深い例「iPadの小売価格499ドルのうち、製造コストは187ドル、その中で中国における労働コストは8ドルにすぎない」を紹介し、労働力はそれほど生産に大きなウェイトを占めないとしている。著者の言葉を借りれば、「歴史を振り返ると、人びとは機械によって豊かになってきたのである。」
では、今後の見通しはどうか。著者は日本企業が家計と同様に貯蓄主体になってしまっている現状に懸念し、「日本企業は退嬰(たいえい)的」と批判します。企業こそが先頭を切ってプロダクト・イノベショ-ンを目指して積極的に投資活動を実践しなければならない、と考えるからです。そして、経済成長については、「成長のもたらす果実を忘れて、反成長を安易に説くことは危険である」と述べています。
このように、同書はイノベ-ションによって、人口減少の問題は十分解決できると結論するのです。実は著者の吉川先生は2年前に学園大学に来て、学生諸君に講演をしてくれました。非常に大きな問題を大変分かり易いレベルにまとめ、大変評判が良く、学生諸君の間に吉川フアンが急増しました。面白い話があります。講演の後、吉川先生は教員たちと研究会をしましたが、そこで、「今年我が家のプロダクト・イノベ-ションはお掃除ロボット、ルンバを購入したことです」と言われ、多くの教員はその後、ルンバを購入しました。私もその一人です。
大学は長い春休みに入りましたが、この時期は無駄にせず、資格の勉強、経済学の勉強、しっかり頑張ってください。私はほぼ毎日大学に来ていますので、質問があればまた直接聞きに来てください。
2017年2月1日
-------- 先生、ご無沙汰です。卒業生のMです。京都でも大雪だったのですね。私の地元はもっと大変でした。ところで、新年の挨拶の所で「新フィッシャー主義」について考えています、と書いてありますが、それって何ですか。
--------- M君、久しぶり。元気そうで何よりです。これは、ブラ-ド(James Bullard)という、アメリカ連邦準備銀行の一つ、セントルイス連銀総裁が最近主張しているアイデアです。日本を初めとして先進国はデフレに悩み、その対策としてゼロ金利政策を実施してきました。しかし、どの国もインフレ目標を達成することができません。そこで、彼が考える基本的な考えは以下の通りです。
金融論の講義で習ったことを思い出してください。経済が悪化すれば中央銀行はどうするか。民間金融機関に資金を供給します(買いオペレ-ション)。すると民間金融機関同士で資金のやり取りをする、「短期金融市場」の金利、日本であれば、コ-ルレ-トが少しずつ低下します。コ-ルレ-トは民間金融機関にとって貸出の機会費用ですから、貸出が増加し、預金通貨も増え、マネ-サプラも増え、経済を浮揚させ、物価も上昇させます。
このような方法で各国は、デフレ脱却を図ろうとしました。それでも無理なので、この質問コ-ナで説明したような「量的金融緩和政策」さらには「マイナス金利政策」まで実施しています。なのに、物価は上昇しません。何故でしょうか。ブラ-ドの疑問点はここにあります。
フィッシャ-方程式を憶えていますか。名目金利=実質金利+予想インフレ率という式です。友達に3%の金利を付けてお金を貸そうと思っている時に、やはり1年後の物価が気になりますね。もし、1年後に物価が5%上昇すると予想される場合には、3%に物価上昇分の5%を足して8%の金利で貸すのが普通ではないでしょうか。この関係はフィッシャー(I.Fisher)が100年近く前に考えたアイデアです。したがって、この式のことを今では、「フィッシャー方程式」と呼んでいます。ここで、実質金利が一定であるとすれば、名目金利と予想インフレ率は同じ方向に動くことが分かります。この式を右から左に読めば、物価の上昇は名目金利の上昇を促すことになり、反対に左から右に読めば名目金利の上昇が物価を上昇させる、ことになります。ブラ-ドが着目したのはこの点なのです。
このブラ-ドのアイデアを理論的にサポ-トしているのが、シカゴ大学の気鋭の経済学者、コクラン(John H. Cochrane)です。コクランは線形の3つの方程式から成る、マクロ経済モデル(ニュ-ケインジアンモデル)を用いて、シミュレ-ションを実施し、次のような結論を導いています。 ①中央銀行が金利を選択する。それにより産出(実質GDP)およびインフレ率に影響が及ぶ。②インフレ率は設定された金利の変化に対応する。③ ゼロ金利のような低金利を選択すると、やがてインフレ率にマイナスの影響が及ぶ。④もし、中央銀行が金利を低いまま(ゼロのまま)に据え置くと、経済には何も変化が生じない。つまり、「永遠のゼロ(permazero)」の状況が続くことになる。
そこで、ブラ-ドはデフレ下の金融政策には次のような注意が必要だと考えています。デフレだから金利をゼロにすればそれで良いと考えるのは、大変愚かなことである。それではいつまでたっても、インフレは目標金利を超えることはない。そこで、インフレ目標を下げたらどうか、という意見も出てくるが、それも愚かなことである。経済成長は基本的に人的資本の蓄積や技術進歩によってもたらされることを忘れてはならない。現在のような政策を続けると、行く先は「量的金融緩和」のような非常に無理のある政策に陥ってしまう。
もちろん、このような考え方には異論はあると思います。しかし、わが国やヨ-ロッパの現実を見ていると、考慮すべきアイデアだと思います。仕事はどうですか、君のことだから頑張っていると思います。また、連絡をください。そして、新キャンパスを見にきてください。
2016年11月6日
-------- 先生、昨日太秦キャンパスで開催された、「日本経済の現状と課題」の講演会とシンポジュ-ムを聞きに行ってきました。前半の講演はグラフばかりで面白くなかったが、後半のシンポは先生とO先生の対立する意見が出て、大いに盛り上がっていましたね。両先生の意見の違いはどこにあるのか、もう少し知りたいです。それから、O先生とは仲が大変悪そうで心配です。
--------- 土曜日で、バイトもあっただろうに、良く来てくれましたね。卒業生の人も何人か来てくれました。奥さんを連れてきてくれた卒業生もいました。嬉しい限りです。 さて、君の質問ですが、今回のシンポで意見の対立があったのは、デフレを止めるにはどうすべきか、という点でした。O先生も今の日本経済にとってデフレの克服が重要である点については同意されており、私との意見の相違はありません。では、どうしてデフレを克服するかという点が大きく異なりました。O先生は名目賃金がトレンドとして低下傾向にあり、賃金の低下は所得の減少であり、それが消費の伸びを抑え、総需要不足となり、デフレギャップを拡大させてきた。その中で物価の上昇が抑制されて、日銀が目標に掲げる2%が達成できなくなっている。また、雇用が改善する中で、賃金が伸びないのは、非正規労働の比率が増え、その人たちの賃金が非常に低く抑えられているからだと主張されました。現在の政策は大企業や一部の人たちだけを豊かにして、国民の大半を苦労させていると考え、大企業の利益が増大している事にも厳しい批判の目を向けられます。
O先生は常々社会の弱者に焦点を当てるべきだと言っておられ、そのような研究姿勢に私はいつも心より尊敬しています。私たちのような職業は権力に迎合するようなことがあってはなりません、常に批判する姿勢が大切です。まさに、その昔ケインズの師匠であったマ-シャルが学生を講義中に諭した、「経済学の勉強は冷静な分析が重要だけれども、弱者への思いやりを忘れてはならない:Cool Head, but Warm Heart」でなければなりません。
話を戻しましょう。2000年代入り世界の他の先進国でもデフレ傾向を示すようになりました。しかし、名目賃金が趨勢的に低下しているのは日本だけ。日本の賃金が低下しているのは、終身雇用制度が変化し、雇用形態が労働者に不利になるように変化したから。賃金が下がり、所得が減り、消費が減少し、物価が下がる。したがって、デフレの原因は賃金の低下、さらには雇用形態の悪化、それに尽きる、というのがご意見です。
これに対して、私はこれまでもこのコ-ナで主張し続けてきたように、デフレはやはり広い意味で貨幣的現象であると考えます。その意味で日銀が大胆な金融緩和を続けていることを支持します。金融論の講義を簡単におさらいしましょう。通常金融緩和は次のようにして効力を発揮します。まず、日銀が民間金融機関から国債を購入します。それによってコ-ル市場の金利、コールレートが低下。その低下に伴い民間金融機関の貸出金利も低下し、貸出が増え、預金が増え、マネ-ストックが増加します。その過程で生産が増加し、物価も上昇します。1990年代日本経済はデフレに突入しました。日銀は以上のル-トを念頭にコールレートを下げる政策を実施してきました。しかし、そのレ-トもついにゼロの下限に達したのです。金利がゼロに達した段階で一応金融政策の役割は終わったと考えられます。しかし、経済はデフレ傾向を強めて行きます。
次にたとえ金利がゼロ下限に達したとしても、なお金融緩和を続ければデフレに対処できるのではないか、という考えがでてきました。そこで、日銀はこれまでの金利を目標にした政策から、民間金融機関が日銀に預ける預金量(日銀当座預金)を目標に金融政策を実施することにしました。これは、これまでの金融政策とは大きく異なりますから、非伝統的金融緩和政策、量的金融緩和政策、と呼ばれます。これは2001年から2006年まで実施されますが、この政策の効果については、これまでの日銀はあまり評価しませんでした。そこで、2008年にリ-マンショックが起きて大きな不況の嵐が世界中を襲った時も、この政策に立ち戻ることはありませんでした。その後、この日銀に対して厳しい批判が海外の学者も含め、多くの人たちの間から起きました。そこで、新たに登場したのが、2013年からの黒田新総裁を中心とする新しい日銀です。その政策は先の量的金融緩和政策をさらに推し進めた、大胆な金融緩和で一挙にデフレを解消しようとするものでした。実施当初は市場、国民の反応はきわめて良好で、円安、株高が生じ、目標の2%インフレ率もすぐに達成できると思われていました。しかし、現実には2%の物価目標は長くデフレを経験した日本経済にとって非常に高い目標となり、未だに達成できていません。そこで、O先生のような主張も現実見を帯びてきて、再び日銀批判が先とは反対の角度から生じているのが現状です。
何故、現在の日銀はインフレ率目標に拘るのでしょうか。日銀は「自然利子率」という概念を重視しています。これは、インフレもデフレも起こさない、景気中立的な利子率です。完全雇用をもたらす利子率と考えても良いでしょう。長期的には自然利子率は潜在成長率と等しくなります。この自然利子率をどのように求めるかは少し専門的な知識が必要ですが、日銀の計測によれば、現在これはマイナスからゼロの値をとっています。これに比べて現実の金利、実際には名目金利から予想インフレ率を差し引いた実質金利が高いか低いかが、金融が緩和しているか否かの基準になります。いま、仮に自然利子率がマイナス1%であるとします。名目金利が0%でインフレ予想がマイナス1%であれば、実質金利は1%となります(=0-マイナス1)。したがって、この場合には自然利子率<実質金利、となり、たとえ名目金利はゼロであっても、金融は引き締まっていると判断できます。そこで、インフレ期待を高める必要が出てきます。もし、インフレ予想が+2%になれば、実質金利はマイナス2%となり、自然利子率>実質利子率となり、金融は緩和されたと判断できます。また、経済の潜在成長率を高めて行けば、この関係は成り立ちますので、当然成長力を高める政策も重要です。
このインフレ予想が高まらないのが、今の日本経済の問題です。2013年にインフレ目標が設定され、新たな金融政策が実施された当初は人々の期待は高まり、2%目標達成は真近と思われましたが、現在はそうではありません。それは、90年以降の日本経済があまりにも悪く、日本人の心にデフレ予想がしっかりと根付いてしまったからです。物価は下がるのが当たり前で、物価が上がるとは思えないからです(私が君たちの頃物価は上昇するのが当たり前と思っていました)。そのためにも、日銀はこれまで実施してきた、年間80兆円のマネタリーベ-スを増やすという政策をゆるぎない覚悟で継続する必要があると思います。
今年に入ってマイナス金利の導入、長期金利のコントロ-ルという新たな政策の模索を始めましたが、この方法は日銀の政策転換では、という誤ったメッセ-ジを市場に送ることにもなりかねません。マネタリーベ-スを軸にした政策の継続は必要です。ちなみに、私は今夏スウェ-デンに行ってきましたが、それほど悪くないのに、同国ではデフレ警戒感が強く思い切った金融緩和を実施しています。こちらは、マイナス金利政策(マイナス0.4%)を実施しています。それは日本のように国債が国内消化でなく、量的緩和が使えないからです。明らかに日本を手本(悪い)にし、デフレの怖さを知っているからだと思います。ただ、都市部では不動産価格の上昇が見られバブル再燃の懸念があるのも事実です。フィンランドでもECBの下でマイナス金利政策を実施していますが、これまで同国を牽引してきた、ノキアグル-プの経営が悪化し、経済をきわめて悪い方向に引っ張っているのが心配です。このコ-ナでも何度も述べてきましたが、フィンランドは90年代初めの非常に厳しい金融危機を適切な金融政策と不良債権処理で見事に切り抜けましたが、その後のフィンランド経済の成長をけん引し、福祉国家の維持を可能にしたのは、ノキアを中心とするIT産業です。経済を引っ張るのは金融政策ではありません、実体経済を成長させるのは技術進歩を初めとする実物要因であることは忘れてはなりません。
日銀の金融政策により、デフレが解消すればつぎに必要なのは実体経済の成長です。そのためには、これからの人口減少の中でいかに生産性を上げるかが重要な政策課題になると思います。しかし、今はまずデフレ対策です。そのために大胆な金融緩和の継続が必要と考えます。どうですか、これで君への答えになりましたか。年度末にはプレゼンコンテストも開かれます。この調子で引き続き頑張りましょう。
2016年9月23日
---------- 先生、卒業生のMです。日銀が大きく政策変更するようですね。「量」から「金利」へって。先生の金融論でも学習しましたが、これは既に否定された政策ではないですか。また、昔の金融政策に戻るのですか。大丈夫ですか。日銀の応援団としては大変心配になってきました。
--------- M君、元気そうで何よりです。今朝の朝刊も大きく報じていますね。昨日開催された日銀の金融政策会合で、政策目標をこれまでの「量」から「金利」に変更することを決めました。日銀は2013年以降、資金供給量を年80兆円まで増やす量的金融緩和を実施、さらに今年2月からはマイナス金利政策を実施し、物価目標2%実現に向けて頑張ってきました。しかしながら、物価の方は一時1%を超えて2%に近づいたものの、原油価格の下落、世界的な景気低迷の影響があり、再びデフレ回帰の様相を呈してきました。マイナス金利の弊害も出てきました。とくに金融機関の経営を大きく圧迫することになりました。金融機関は短期の金利で借り入れ、長期の金利で運用し、その利鞘の確保が重要です。確かに、長期の金利がマイナスの状況ではどうしようもありません。
そこで、今回日銀の選んだ政策は、短期の金利はマイナスのまま、長期の金利を上昇させ、なんとかプラスにもって行こうとする政策です。金融論で習った、イ-ルドカ-ブを思い出してください。横軸に年数、縦軸に金利をとって結んだ曲線のことです。通常の場合には、年数が長くなればなるほど、金利は高くなります。したがって、その曲線は右上がりとなります。現在はそのイ-ルドカ-ブ全体がマイナスの方向に沈んでいるのです。そこで、10年以上の金利の部分がなんとかプラスの領域に出るように、カ-ブ全体を急激な右上がりにすることを狙っています。具体的には10年物国債の購入を減らします。そうすれば、10年物国債の価格は低下し、その反対に利回りは上昇します。本当にそのような事ができるのでしょうか。できたとしても、10年物国債の利回りが上昇すれば各種の長期金利も上昇に転じるでしょう。限りなくゼロにまで近づいてきた、住宅ロ-ンの金利を初めとして企業が設備投資に借り入れる金利も上昇せざるをえません。さらに、為替レ-トが円高に振れる危険もあります。
金利はさまざまな要因で決まってくるので、それを目標とする金融政策はやってはいけない、というのは、まさに君の言うとおりです。マイナス金利の幅を拡大するなど、まだまだ日銀に選択枝はあるはずです。日銀が方向転換した、日銀が敗北を認めた、と声高に発言する人が多いのには困ります。日銀に無用の圧力をかけるような事は避けるべきなのです。再び、2013年以前のデフレ経済に戻って良いのでしょうか。今はアベノミクスによって生じたレジュ-ムチェンジを辛抱強く支えていくことが大切なのです。長いデフレによって国民の間に今なお定着しているデフレマイインドを払しょくし、期待インフレを高めて、実質金利を下げて、デフレ経済から一日も早く脱却することが大事です。日銀としては反対意見に押されて、焦ってはいけません。
忙しいとは思いますが、一度大学に来ませんか。私もゆっくりと話がしたいです。連絡をくれれば、君に日程を合わせます。
2016年9月15日
――――― 先生、今日は。夏休み前に今年はスウェ-デンに行くと言ってましたが、どうでしたか。「トト姉ちゃん」もいろいろ有りましたが、ハッピ-エンドで終わりそうです。
―――― 君も元気そうで、何よりです。夏休み開始と同時に出発しようと思っていたのですが、夏休み前半はオ‐プンキャンパスの担当が当たり、中頃の出発となりました。今年はスウェ-デンのルンド大学です。ここには、北欧の金融危機について研究している、ヨヌング教授とフレガ-ト教授の2人がいるからです。この2人の教授の論文はこれまでいくつか読み、君たちへの講義に使っています。連絡をすると、すぐOKの返事がきました。フレガ-ト教授の大学院の学生は私が数年前にフィンランドで発表した論文を参考文献に上げているとのことでした。
ルンドはどこにあるのか、地図で調べましたが、近くに空港はないようです。それで、どのようにして行くのか、尋ねたら、「コペンハ-ゲンから列車で」ということでした。2000年からコペンハ-ゲンとスウェ-デンは大きな連絡橋で結ばれるようなったとの事です。関西空港からはコペンハ-ゲンまでは直行便がないので、アムステルダム経由ということになりました。大きな荷物を抱えて、国際列車に乗るのは、大変な重労働です。昔なら北欧の昼は長く一気に目的地まで直行ですが、今は体力のことを考えて、コペンハ-ゲンの空港内のホテルで一泊し、翌朝ルンドに向かいました。
列車が橋を超えてスウェ-デンに入りますと、最初の駅マルメでまず10分間ほど停車して検札が始まりました。国境を超えるのですから、当然かもしれませんが、入念な検札です。40分ほどで、ルンド駅に到着です。駅に着くと駅員らしい人を見つけ(駅員はほとんどいません)、タクシ-乗り場を聞くと、向こうに「いろいろな」タクシがあるということで、一番前に止まっていたタクシで指定された宿舎に向かいました。10分足らずの距離で料金はなんと360クロ-ナ(4680円)でした。翌日大学に行き、フレガ-ト教授に会い、マルメで足止めをくった事、タクシーが意外に高かったことを言うと、教授は事前に言っておくべきだったと、少し笑いながらこう説明してくれました。まず、マルメでの入念な検札は今スウェ-デンでは大量の移民に苦慮している。不法移民も後を絶たないためである。ほとんどの小学校では定員オ-バとなり、教育の質は明らかに低下している。また、国境近くのマルメでは犯罪率が急上昇しているとのこと。確かにルンドでも街の少し大きな店の前には明らかに移民と思われる人が座り込んで、客に小銭をねだっています。
タクシーについては完全に自由化されており、料金は各社が自由に設定できるとのこと。確かによく見るとどのタクシにも窓に料金を説明するステッカが貼ってある(スウェ-デン語)。これでは短期滞在者には選択の自由がない。所得格差の少ない国での市場原理の導入の実態です。教授は大手のタクシ会社を教えてくれた。電話番号は121212、以降私はこのタクシを利用した。あのタクシの2分の1から3分の1の安さです。
このように書くと、何かせちがらい感じを受けるかもしれないが、ルンドは北欧の都市らしく緑が一杯の大変美しい街です。大学は17世紀に創立され、街全体が大学という感じです。キャンパスの中にも何百年もたつと思われる、直径を優に1メ-トル超える巨木がそこら中にあり、森林を切り開いてそこに大学ができた、ということでしょう。
ルンド大学と言えば、経済学史で学んだと思いますが、クヌ-ト・ウィクセルが教鞭をとった大学です。それを記念して、ウィクセル研究所があり、彼の遺稿、遺品が保存されています。すでに学習したと思いますが、ウィクセルは「自然利子率」という概念を提示し、後のケインズの「資本の限界効率」というアイデアに大きな影響を与えました。それまで、貨幣は実体経済を覆うべ-ルにしか過ぎないと考えられていましたが、ウイクセルのこの概念により、貨幣は実体経済に深く浸透する可能性が示唆されたのです。今も各国の中央銀行は「自然利子率」を意識しています。とくにアメリカのFRBは市場金利と自然利子率が一致するように金融政策を行っています。この状態であれば、経済は過熱もせず、不況にもならない、と考えています。
スウェ-デン経済も好調とは言えません。大学に隣接して、エリクソンがソニ-と共同して会社を設立していましたが、事業悪化のため、今は解体されて、サイエンスパ-クとして利用されています。フィンランドのノキアも大変な状況にあるようです。アップルの攻勢に両者は大きく後れをとったようです。北欧の危機回復の原動力になったのは、両企業であっただけに、今後が心配です。金融政策に関して言えば、このコーナでもすでに説明していますが、ヨ-ロッパはマイナス金利の先駆者です。中でもデフレを警戒した、スウェ-デンはいち早くマイナス金利を導入し、現在はマイナス1.25%を付けています。これは明らかに日本のデフレへの政策遅れを意識したものです。若手のマクロ経済政策担当のアンダ-セン教授によれば、住宅価格が上昇しており、このままマイナス金利を継続することは弊害を大きくすると懸念を示しました。このように住宅価格が反応しやすいのは、住宅供給が民間ではなく政府に依存しており、供給数が限定されるためでもあるらしい。彼の書棚になんとト-マス・メ-ヤ教授の「マネタリズムの構造」が置いてありました。私が若い頃お世話になったあのメーヤ先生の主著です。なんでも、彼の教授がリタイアする時に重要文献だといって彼にくれたそうです。アンダ-センもマネタリストであることが分かり、メーヤについていろいろ話をしました。アンダ-セン曰く「世界は狭いね」。
また、今回世話になったヨヌング教授は若い頃、UCLAでレイヨンフブッドの指導を受けたとのこと。アクセル・レイヨンフブッドはルンド大学出身で彼とは今も交流があるとのこと。実は私も80年代中頃、彼が「ケインズ経済学とケインズの経済学」を出版した頃、UCLAで話を伺ったことがあります。その頃、ヨヌング教授は大学院の学生として、隣の院生研究室で一生懸命頑張っていたのです。まさに「世界は狭いね」です。
政府の経済顧問の肩書をもつヨヌング教授は、移民問題について日本は難民受け入れにもっと積極的になってほしい、また人口減に悩む日本経済にとってそれは大きくプラスになるはず、と言われました。移民については、日本では、もし完全開放すれば隣国によって占領されてしまう、という根強い反対論もある」と答えると、「何を言うかかつて日本は隣国を侵略した経験をもつではないか」と、厳しい表情で反論されました。移民問題はスウェ-デン経済に大きな負担になりつつあるようです。同国は原則として、技術力がある、教育レベルがある程度以上の人などと制約を設けつつ、移民を受け入れています。現に今回いろいろお世話になった秘書のマリアナ・アントンさんはご主人とともにル-マニアから移住してきたとの事、スウェ-デン語はもちろんのこと、英語も話せます。「私たちは幸運です。飛行機での海外旅行などの贅沢はできないが、休日は主人と2人でドライブを楽しんでるわ」と明るく笑う。
スウェ-デンは1992年に固定相場から変動相場制に移行しました。これは賢明な選択でした。私たちの研究ではそれ以降金融政策は主体的に実施され、実体経済にプラスのきわめて良好な結果をもたらしている事が明らかになっています。帰国前にはセミナ-を開いてくれ、多くの人が集まってくれました。この点の詳細を含め、まだまだ興味深い話がありますが、今日はこれぐらいにしておきます。残りはまた、講義中に話していきたいと思います。「トト姉ちゃん」もそろそろ終わりだね。ではまた、教室で。
2016年4月10日
--------- 先生、卒業生のTです。もうトトが死んじゃいましたね。常子は偉いですね、健気です。泣いちゃいました。それにしても、日本経済良くならないですね。マイナス金利というのを実施しているようですが、アベノミクス大丈夫なのでしょうか。
--------- 確かに、日本経済はいま一つです。一時の元気は無くなっています。そこで、日銀は2月にマイナス金利政策を実施しました。これは何も日本が初めてではありません。このコ-ナで以前説明しましたように、ヨ-ロッパではすでに実施されています。まず、なぜ、日本経済がよくならないか、足踏みを続けているか、について説明します。現実の物価が目標の2%から大きく下に離れていることです。アベノミクスの重要なポイントは日本経済をデフレから脱却させることです。そのために、物価目標を設定し、その実現に努力してきました。物価が上昇に転じれば、実質金利は低下し、設備投資、住宅投資も増加し、それが消費を高め、日本経済は上昇軌道に乗ると考えるからです。
それがうまく行っていないのです。物価が上昇せず下落傾向にあるからです。それは、原油価格の下落が大いに関係しています。原油価格が下がるのは大いに結構で、何が悪いというかもしれません。しかし、これまでの日本経済の足を引っ張ったのは、10年以上も続いた物価下落です。このコ-ナでも何度も取り上げましたが、物価下落はデフレスパイラルを引き起こすのです。それにもう一つ大きな理由は為替が円高基調に入ったことです。昨日の終値で1ドル=108円です。アベノミクスが始まる前(2012年)には、1ドル=80円だったのが、その後120円台にまで円安が進みました。これは輸出関連を中心とする日本経済の株価を大いに引上げ、それが消費を刺激し、日本経済回復の原動力になっていたのです。
ところが、今年に入って為替は円高傾向を示しています。円高は輸入関連の企業にはプラスではないかという意見もありますが、グロ-バル化した経済を考える時、円高はやはり日本経済にはマイナスに作用します。円高の進行の理由としては、予想されていたアメリカの金利引上げが先に延びたことが考えられます。簡単に説明しますと、アメリカの金利が上昇すれば、アメリカで資金を運用するのが有利になるので、円を売ってドルを買う動きが働きます。そして、そうなると予想する投機家が先にドルを買うようになるからです。また、海外からの旅行者などが増えて、日本の経常収支が黒字になっていることも円高要因です。余談ですが、最近太秦キャンパス周辺でも多くの旅行者を見かけるようになりました。特に広隆寺周辺で迷っている旅行者に道を尋ねられます。通勤途中でボランティアのガイド?をよくやっています。閑話休題。
そこで、マイナス金利の登場となった分けです。各金融機関は日銀に当座預金口座をもっていますが、これは金融論の時間に勉強したように、基本的には預金引出しに備えるためで、所要準備金というものです。その額は預金量によって決まります。現在各金融機関が保有する準備金は量的金融政策のために大きく膨らんでいます。これを超過準備金と言い、それには現在+0.1%の金利が付いています。このコ-ナで何度も説明しましたように、日銀がこのように民間金融機関に膨大な超過準備金を保有させているのは、それが最終的に経済の活性化につながることを期待してのことです。しかし、いま述べました円高要因などで日本経済は思うように回復していません。そこで、量的金融緩和政策をさらに一歩進めるという方針のもとで、超過準備についてマイナス0.1%の金利を新たに課すという政策が実施されたのです。
各金融機関はマイナス金利つまり日銀に支払う手数料を嫌って、貸出しその他の資金運用を実施するであろう、と日銀は期待しています。事実、銀行の住宅ローンの金利もさらに低下する傾向にあります。ただ、このマイナス金利は超過準備すべてに課すのではなく、新たに増加した超過準備に課します。それまでの大半の準備金にはこれまでと同じ+0.1%の金利が付きます。その意味で銀行経営を大きく圧迫することにはならず、これによって物価が上昇し、景気が上昇すれば最終的には銀行の収益も増加します。もう少し我慢というのが現状です。
「トトねえちゃん」は面白いね。確かに頑張る姉さんは頼もしい。私の子供の頃にも近所にあのような姉さんがいたな、と懐かしく思い出しています。仕事の方は順調のようで何よりです。引き続き頑張ってください。また、質問などあればメ-ルをください。
2015年10月3日
---------- 先生、NHK朝ドラ「あさが来た」が始まりましたね。早速、昨日は泣いちゃいました。姉のハツが嫁入りに不安を抱いて、妹のあさと一緒に泣くシ-ンです。昔は親が全部決めたのですね。さて、質問です。今卒論を実家で仕上げているのですが、アベノミクスは昔のペテン師、ジョン・ロ-の手口と同じであるという、強烈な批判を読みました。これをどう理解するか、悩んでいます。
-------- 今は実家ですか。そうか、君は就職も決まったし、単位は全て取れているからね。朝ドラ、私も見ています。あのシ-ンは本当に可愛らしかったね。ローの事ですが、かれは確かに多くの人を株式投資に巻き込み損害を与えました。かれの歴史上の評判は最悪です。しかし、かれは経済学的にみると大変すばらしい試みをしているのです。まず、かれは貨幣の不足する経済は停滞すると考えていました。したがって、経済を活性化するには、貨幣を増やすシステムを構築しなければなりません。なぜ、そのように考えるようになったのか、少し当時の事情を説明しましょう。舞台は18世紀初めのフランスです。当時絶対的な権力を誇ったルイ14世が死去し、ルイ15世が後継になります。しかし、まだ幼少であったので、オレルアン公が摂政になりました。かれを悩ませたのは、ルイ14世の乱費でフランス国家財政は大変な状況にありました。年間の収入が1億4500万リ-ブルしかないのに、国の借金は30億リ-ブルもあったのです。まさに財政は破綻しているのです。
そこで、オレルアン公が目をつけたのが、ロ-の才覚です。ロ-の才覚を見抜いていた、オレルアン公はかれにさまざまな権限を与えてフランス財政の再建を託します。まず、ロ-は銀行を設立します。そこから紙幣を供給しようというわけです。そして、実体経済を活性化させるために、ミシシッピ会社を設立し、その会社の株式の購入にあたっては国債の交換を認めたのです。当時国債は暴落し、額面価値を大きく下回った値打ちしかなかったので、額面で株式と交換ができるのですから、この交換は当初はスム-スに行われました。君たちがファインスの講義で習った、一種のデット・エクイティ・スワップ、というのに似ているね。他方で国は銀行から借り受けた紙幣で国債の回収を進めました。このローのシステムがうまく機能するには、紙幣が順調に流通する必要があります。そのために、税金は紙幣のみで収めるとか、正貨の保有を制限するとか、いろいろ工夫します。
また、ミシシッピ会社の株価が順調に上昇しなければなりません。株が上がるには、同社の業績が上昇し、配当が増える必要があります。同社はその名前からも分かるように、アメリカのミシシッピの開発を狙ったものです。この計画は確かに無謀でした。実際に、ロ-自身が行ったこともない場所を開発しようというのですから。もちろん、同社には、交易に関してさまざまな特典、独占権が与えられました。税金を集める仕事も同社が引受けました。それまでは大貴族の仕事でしたから、そのような権限を奪われた貴族たちの不満は大きかったと察せられます。改革者と既得権益者の対立だね。実際には、株価が実体以上に上がり過ぎ、その後人々の思惑はずれから、急落します。株を高値で買った人は当然大損失を被ります。結果的には株価の暴落、紙幣の増加とインフレが残り、国の債務もロ-の改革前と同じ水準ということで、全く何も変わりませんでした。株で損をした人、既得権益を奪われた貴族たちの怒りは頂点に達し、ロ-はフランスを脱出せざるをえませんでした。そして後、かれはさまざまな国を放浪した後、一文なしになってベニスで死んだということです。ローには詐欺師、ペテン師という烙印が押されました。
しかし、私は当時腐敗しきっていたフランスの貴族中心の組織に大きなメスを入れ、あらたな貨幣改革をおこなった、ロ―のシステムは決して非難されるべきではないと思います。ロ-の脱出後、フランスは新たな貨幣改革を行い、正貨中心の貨幣制度にした結果、貨幣量は大幅に減少し、デフレとなり、経済はふたたび悪化しました。ロ-のやり方は強引でした。しかし、イギリス、オランダに、インド、中国という美味しいところを抑えられ、アメリカに目を向けざるを得なかった当時の世界情勢、国王、官僚の腐敗による国家財政破たんという実情を考える時、決してかれを非難することは正しくないと思います。今日でいう産業政策、金融政策の時代の先端をいくアイデアこそがもっと評価されるべきだと思います。アベノミクスを単純にペテン師呼ばわりするのも良くないと思います。
さて来週からの朝ドラも楽しみだね。一度卒論の進捗状況を知らせてください。では、引き続き頑張って。
2015年8月22日
――――― 先生、4回生のHです。就職がやっときまりました。第一志望の銀行はダメでしたが、地元の農協に決まりました。これで、就活も終了にします。先生、今夏も北欧に行くと言っていましたが、今北欧ですか。僕も行ってみたいです。どんな所ですか。
―――― H 君おめでとう。良かったね。君のことは気になっていました。君のような真面目で頑張り屋の学生が決まらないのはおかしいと思っていました。銀行の担当者も見る目がないなと思います。キャリサポの人も心配していましたので、連絡をしておいてください。
私は今、フィンランドのトウルクという街にきています。ここは、5年ぶり3回目の訪問です。首都ヘルシンキから西へバスで3時間、飛行機で40分のところにあります。ここフィンランドも財政難らしくて、大学の統合が進んでいます。トウルク大学もトウルク経済大学と併合され、トウルク大学経済学部はトウルク経済大学の建物に入っています。校舎はさすがIT先進国で、各階の入口ではICチップのタッチが必要になります。大学が提供してくれたアパートは街の西にあり、東にある大学までは街の中心を通って、行かねばなりません。バスもありますが、路線がややこしいので、毎日歩いてきています。ちょうど学園大学から亀岡駅までとほぼ同じ距離です。路はどこもきれいに整備されていて、自動車、自転車、歩道が分離されているので、とても歩き易いです。
朝は朝靄がでていることが多く、空気がひんやりとして、人も自動車も少なくちょうど深い森の中で朝を迎えた時の感じです。途中大きな広場があり、そこでは朝市が日曜以外毎朝開かれています。近隣の農家の人が野菜、果物、花を売っています。多くの地元の人たちが買いに来ています。非常に小ぶりの青リンゴが10個ほどで2ユーロです。食べると甘酸っぱい香りが一気に口に広がります。日本では経験できない味です。その他、ブルーベリを初めいろいろな色のベリーが売られています。そこを抜けると大きな川にでます。この川はバルト海を経て、北海、大西洋に通じています。この川沿いには観光客用の瀟洒なカフェが多く並んでいます。この川は冬は氷り、その上でスケートができるそうです。その川に沿ってさらに東にすすむと大学があります。おそらく昔は大きな森だったと思われるところを開発して大学にしたようで、森の中に大学があるという感じです。
大学は8時にはみなすでに来ています。職員の人たちもそれぞれ個室を持ち、ドアーをオープンにして忙しく働いています。顔が合うと、必ずモ-ニングと挨拶をします。笑顔で何らかの言葉が英語で返ってきます。10時はコーヒタイムでそれぞれが共同休憩室でコーヒを飲んだり、学内のカフェで休憩します。そして、4時になれば一斉にみな帰宅します。後に残っているのは博士課程の大学院生ばかりです。ここでは大学は3年制でほぼ90%が大学院の修士課程に進みます。したがって、フィンランドでは大学生のほとんどが大学院の修了生となります。問題は大学院の博士課程と修士課程の学生のレベルが大変大きいことです。博士課程の学生はそれなりのレベルの経済ジャーナルに投稿しなければなりません。博士号を取得するには、そのような論文が最低3本必要となります。遅くまで研究室に残らねばならいのは当然です。ひたすら理論論文を読み、モデル構築に腐心しています。ここの大学はゲーム理論の専門家が多く、この分野の勉強をする学生が多いです。ただ、学費および生活費は国から支給されますので、生活の心配いりません。ただ、ひたすら研究に専念するわけです。
大学、大学院の計5年間、学費は無料ですし、生活費も毎月5万円ほど支給されます。バイトの必要はありません。しかし、学部の学生はそれほど勉強しない、というのはここの教授の弁です。先日も教授が1/0が1と言う学生がいて困った、と嘆いていました。日本ではどうかと問われて返答に窮しました。バイトに追いまくられ、ブラックバイトが問題になる、日本の学生は気の毒です。食堂は学生が5ユーロ、外部の者は8ユーロです。サラダおよび飲み物はビュフェ形式ですが、メイン料理はパスタ、チーズ、ポテトで一度食べたらもう御免という感じですので、私は自宅で作った弁当を食べます。同室のドイツ人研究者カラス氏は珍しそうに、私の弁当を覗くのでこまります。本人はアジアフ-ドが好みということで、インスタントラ-メンを毎日食べています。湯をかけてそれを捨て、スパゲティ感覚で食べています。栄養大丈夫かと思います。
私は2時ごろに休憩をとることにしています。大学のカフェではコーヒは1ユーロですが、大学の近所のカフェに行きます。2.4ユーロです。街のいろいろな人が出入りするので、見ていて面白いです。ウインドウにはいろいろなシナモンパンが並んでいて美味しそうです。ここの人は甘い物が好みで、朝から甘さたっぷりのパンを頬張っているのをよく見かけます。会計をみていると、現金払いをする人はほとんどいません。クレディットカードかデビットカードによる決済です。日本ではコーヒ一杯をカードで支払うことはまずないですよね。
4時になると街の中心にある大教会の鐘がカーンカーンと鳴り響きます。その頃にはみないなくなるので、大学は極めて静かになります。私も5時にはその日の資料を整理してカバンに入れて帰ります。昼に行ったカフェもすでに閉まっています。ほとんどの店は閉まっています。5時といえばまだまだ明るく、日本でいえば2時か3時ごろです。朝通った広場の店もすべてきれに片付けられていて、ゴミひとつ落ちていないのが不思議です。また、翌朝同じ光景が繰り広げられるわけです。 学生はきわめておとなしく、悪くいえば大変消極的に見えます。大学院の学生ももっと厳しい議論をしたくても大変気を使った振る舞いをします。礼儀も正しく廊下であっても必ず挨拶をしてくれます。同室のドイツ人研究者の話を聞いてもドイツの学生に比べておとなしすぎるということです。講義をしていても理解しているのか、してないのか分からない、とのことです。講義を見学しましたが、確かに私語をする学生は全くいません。ただ後ろの方でスマホをいじっている学生は数人みかけました。
前に訪れた5年前とはほとんど変わっていません。勝手知ったる我が家という感じでのびのび研究生活を送っています。ただ、ここに着くなり、前回親しくしてくれたウィドグレイン教授が亡くなったと聞いて驚きました。まだ50歳でした。会議出張でアフリカに行き倒れられたようです。非常にアクティブな教授で、残念です。良かったのは前回は平の職員だったヨキネン氏が事務長に出世して、それにポーランド人の女性と結婚したことでした。彼女は留学生だそうです。私も前回会ったことのある学生のようです。フィンランド人には珍しくおのろけ話をしてくれました。ヨキネン氏は寡黙でおとなしく、それでいて職務に忠実な典型的なフィンランド人ですから、彼女が惚れたのも無理ないと思います。前回来たとき彼はすでに40歳を超えていたから、早く結婚しないといけないね、といらぬお節介をしていました。大人しいフィンランド人も決める時は決めるのだなと心の中で思わず笑ってしまいました。
さて、今回は君の要望に応えて、フィンランド報告をしました。君も厳しい就活を終えたのですから、しばらくはゆっくりして、あと卒論の準備にかかってください。日本での再会を楽しみにしています。私の方は来週、教員と院生を相手に「日本経済とアベノミクス」について、2時間ばかりレクチャーしなければなりません。あと、フィンランドと日本のバブルの比較論文を仕上げねばなりません。帰国まで少し忙しくなります。周りの大学院生の勉強ぶりは良い刺激になります。以上、フィンランドのトウルクより。
2015年6月1日
―――― 先生、昨夜NHKの特集番組、日本のバブルについて見ました。前に先生も関係していると言っていたので、楽しみに見ましたが、内容的には少しガッカリです。内容が一貫してなくて、分かりづらく、私がゼミで勉強しているのと全く異なっていました。
―――― そうだね。この番組に関しましては、春にNHKの人が大学に来られ取材を受けました。私の考えはゼミなどで話している通りです。NHKの人は北欧の金融危機について関心をもっておられ、なぜ北欧の金融危機の回復は早く日本はあれ程までに遅れたのか、ということでした。日本、北欧ともにバブルは金融緩和と金融自由化が重なった結果です。しかし、バブル崩壊後の対応は日本と北欧で大きく異なりました。その違いが日本の不況を長期化し、失われた20年を生んだのです。その違いは、北欧では固定相場を廃止し、金融緩和を速やかに実行し、不良債権に苦しむ金融機関に速やかに公的資金の導入を実行しました。一方日本では、その両方が遅れたということです。それが、長期デフレを生み、失われた20年を引き起こしたのです。
番組の前半はなぜバブルが起きたかを説明するのに、元日銀理事の方を登場させて、「私たちはバブルを引き起こした、張本人です」と語らせていました。確かに、1985年のプラザ合意以降金融緩和を継続させた日銀の責任は重く、NHKのこの説明は正しいのです。しかし、80年代後半日銀に金融緩和をさせたのは、日米関係であり、政治の問題が大きく、日銀が政治に従わざるをえない、という制度上の欠陥だったのです。むしろ日銀自身に問題があるのは、バブル崩壊後です。97年に日銀の独立性を強く保証してもらったことを逆手にとって後ろ向きの政策を継続し、デフレを起こしたことが大きな問題なのです。番組ではこの重要な点が全くネグレクトされていましたね。
不良債権の処理を早くしなかったのも、大きな問題です。土地神話に囚われ、まもなく地価は反転するという楽観的な見方をして、それぞれ自分たちの責任を回避し、問題を大きく膨らませました。北欧では国家の存亡の危機と捉えて、不良債権処理にまい進しました。とくに不況の厳しかった、フィンランドではこれは福祉国家の終焉と覚悟し、株主責任を明確にし、公的資金を速やかに導入し、不良債権処理を進め、また多少の混乱はありましたが、その後の賃金切下げも実行しました。それが、後のノキアなどの産業再生をもたらし、経済の急回復を実現したのです。
2015年5月13日
------- 先生、卒業生のMです。実はこの3月で仕事を辞めて、いまB大の通信教育で教員資格を目指して勉強しています。「日銀は今やシャ―マン」になってしまった、ということを聞きますが、本当にアベノミクスは大丈夫なのですか。
------- M君、元気そうで何よりです。教員試験頑張ってください。シャ-マンですか。日銀の金融政策を批判しているのだね。なぜ、そのように言われるのか、を説明する前に、現在の黒田日銀の金融政策について見てみましょう。2013年3月に新たな日銀総裁となった黒田氏はデフレ脱却のために強力な金融緩和を決心します。その内容は、マネタリベ-スを年間60-70兆円のペ-スで増加させる、それによって物価の上昇を2年で2%にまで上昇させる。そのために、日銀は国債だけでなく、ETF、J-REITというリスク資産も購入する、というものです。リスク資産の購入も視野に入れているということで、量的・質的金融緩和政策と呼ばれています。
では、この政策が具体的にどのようにしてデフレ脱却につながるのでしょうか。マネタリベ-スというのは、流通している貨幣(紙幣プラス硬貨)に金融機関が日銀に預けている日銀当座預金を加えたものです。硬貨は政府が発行するもので、わずかですので、単純には日銀券プラス日銀当座預金と考えてよいでしょう。このうち、日銀券は家計と企業の需要にしたがって増減するので、日銀が管理できるのは日銀当座預金です。日銀は民間金融機関から国債などを売り、あるいは貸付けることで当座預金を増やします。5月現在で見ますと、日銀券90兆円、硬貨4.6兆円、日銀当座預金206兆円で、マネタリベ-スは300兆円強というところです。通常、民間金融機関が預金引出しのために準備金として保有しなければならない、所要準備金は6兆円と言われるから、現在民間金融機関はかなり余分の準備金(超過準備)を保有していることになります。ちなみに、この超過準備には0.1%の金利が付けられています。
さて、この過剰な当座預金が経済に与える影響のプロセスはつぎのようなものです。まず、日銀が長期国債やリスク資産を購入すると、長期金利が低下し、資産価格のリスクプレミアムを引下げ、それによって企業などの投資需要が活発化することが予想されます。また、日銀が民間から国債を購入すると、民間金融機関の資産内容が変化します。国債の保有が減り、当座預金が増加します。そこで、金融機関はそれまでのポ-トフォリオをリバランスします。つまり、貸出を増やしたり、外債を購入することが期待されるわけです。これはポ-トフォリオ・リバランス効果と言われます。つぎに、当座預金を増やし、2%の物価目標の実現を国民に約束することによって、市場や人々の期待を大きく前向きに変化させる、つまりデフレ期待を払拭する効果が期待できます。これは時間軸効果と呼ばれます。
この3つの効果のなかで最も期待されるのが、人びとの気持ちの変化です。岩田日銀副総裁は最近の講演の中で、現在の日銀の金融政策の核心は「政策レジュ-ムの転換によるデフレマインドの払拭」にあると明確に述べています(http://www.boj.or.jp/announcements/press/koen_2015/data/ko150204a1.pdf)。これまでの日銀は大幅な金融緩和を実施してきたが、人びとの気持ちを変化させることができなかった。それは、人びとを納得させる、政策ル-ルの体系が確立していなかった。だから、いくら金融緩和しても人びとは反応しなかった。1933年に大恐慌が終わったのも、新しく大統領になったロ-ズベルトが、金本位制の見直しなど積極的な改革案を提示し、実行したこと、日本が恐慌を脱却できたのも高橋の大胆な政策、第一次大戦後のハイパインフレが終息したのも金融政策の枠組みを変えたこと、つまり政策ル-ルが大きくかわることを人びとに広く知らしめた、結果であると述べています。デフレ期待がインフレ期待に変化すれば、実質金利(名目金利マイナス予想物価上昇率)は低下します。すると企業は投資に前向きになります。個人も貯蓄行動を変化させます。物価が下がる過程では、現金保有が最適な資産選択になってしまい、おカネは回りません。また、専門的に言いますと、将来に不安のある状況の下では、資金の予備的需要が増加します。金融機関も企業も個人もみな現金保有を高めます。いくらマネタリベ-スを増加しても、人びとの期待が後ろ向きである限り、退蔵されるばかりで、おカネはまわりません。そこで、この期待に影響を与える政策こそが重要というわけです。
この点が日銀がシャ-マンになってしまった、という日銀批判に繋がるのです。経済は気持ちです。その意味で今の日銀が強調する、レジュ-ムチェンジはとても重要です。私たちの研究でも、日銀当座預金の増加は経済にプラスの効果が出ることを立証しています。また、1990年代初めのフィンランド、ノルウェイの金融危機が早期に回復したのも、このレジュ-ムチェンジがあったからだと考えています。
教員志望に変えたのですね。君はまだ30歳になっていません。いろいろ自分の可能性を試すことは大変良いことです。新しくなった太秦キャンパスにぜひ遊びに来てください。再会を楽しみにしてます。
2015年1月10日
---------- 先生、新年あけましておめでとうございます。卒業生のMです。今年もよろしくお願いします。正月に安倍総理のお伊勢参りのニュ-スを見ましたが、自信満々の様子でしたね。アベノミクスが上手く行っている自信からなのでしょうか。大丈夫なのでしょうか。
--------- M君、おめでとう。仕事も順調で、元気そうでなによりです。確かに最近の安倍総理は前回の首相時に比べればかなり落ち着いて、かつ立派に見えますね。1国の総理に貫録が出てきたのは、国が落ち着いている証拠で、良いことです。私もいろいろな所で、アベノミクスの方向性の正しいことを主張してきました。しかし、あまり自信を持ちすぎて、独裁者になってしまわないように注意が必要だね。
昔、私が学生だった頃、学園紛争が華やかし頃です。講義もほとんどなかった時に、哲学者の鶴見俊輔先生が青空ゼミというのを開いてくださり、いろいろ貴重な話をしてくれました。その時に、先生のおっしゃった「リーダたるものは、どこかシャイな部分がないといけない、そうでないと人は付いて行かない」、として先生の好きなリ-ダの名前を上げられました。今思えば、先生の真意は、人間は弱い者であり弱点をもち判断ミスもおかす、そのことを十分自覚して謙虚で他者を思いやる心がないとダメだという、ことではなかったかなと思います。
さて、経済を動かすのは中央銀行ではなくて、政治家である、という点をあのわが国のバブル期について考えてみましょう。金融論の時間には日銀がマネ-サプライを出し過ぎて、資産価格を高騰させ、その後急激にマネーの量を減じたことにより、不良債権が大量に発生し、長期にわたるデフレ不況を引き起こした、したがって、日銀の責任は大変重い、というような話をしてきたと思います。金融政策と経済の関係は極めて密接であることは、いろんな方向から学問的に立証できます。しかし、その背後に政治の動き、政治家の役割が大きく関係していることは忘れてはなりません。
このバブルに関していうと、そもそも事の発端は、1985年に第二次レ-ガン政権が発足し、財務長官にジェ-ムズ・ベ-カが就任したことにあります。彼はアメリカ経済の不振は貿易不振にあると捉え、ドル安政策を為替市場に介入することにより実現しようとします。レ-ガン政権の立場は為替相場を市場の実勢により決まるものと考えており、当時のアメリカの威信低下という状況からすれば、ドル高はある意味心地よいものでした。
ベ-カはアメリカの実質的リ-ダとして、85年にプラザ会議を画策し、各国にドル安政策をとることを求めます。ベーカがこの政策転換をレーガンに報告したのは、会議開催のわずか数日前であったと言われています。どのように頑固なレ-ガンを説得したのかは定かではありません。ベーカの巧みな政治能力です。連銀総裁のボルカもほとんど相談を受けず、ただドル安になるよう金利は低く抑えるようにと要請されただけ、と述べています。
プラザ会議では、日本の代表竹下大蔵大臣がベーカの気を引くように、「わが国は10%以上円安にする用意がある」と自発的に発言し、ベーカを大いに喜ばせます。この会議は大蔵大臣以外に中央銀行総裁も出席していましたが、どの総裁もなにも発言しませんでした。プラザ会議の翌年にはドルはピ-ク時の25%も急落しましたが、アメリカの貿易赤字は解消の兆しをみせず、ベ-カはさらなるドル安を日本に求め、同時に大幅な内需拡大を要求してきました。この間、連銀もほとんどベ-カの言いなりです。おまけに、86年2月には連銀内部ではレ-ガンの任命した理事を中心に、総裁ボルカーの反対にもかかわらず、金利引下げが強行可決されます。86年10月にはベ-カは宮沢大蔵大臣をよび、円高に苦しむ日本に対して、財政出動、一層の金融緩和を条件に為替調整はこれ以上実施しないと約束します。
この流れを受けて、87年2月にフランスのル-ブルでG7が開催されますが、G5に新たにカナダ、イタリアが参加しました。しかし、イタリアはあまりにアメリカ主導で進行させられることに立腹し、会議途中で帰国したので、この会議は実質G6となりました。これまでアメリカの貿易赤字削減に協力すべく政策協調をとってきた、日本とドイツにこれ以上の金融緩和は自国経済にとって危険であるという認識が広まります。当然です。夏ごろになって、ドイツは金融引締めに動きますが、これに対してベ-カは激怒し、ドイツが協力しないのなら、さらなるドル安もじさない、と発言。政策協調に乱れが生じている、ドル安は暴落するという噂が流れ、アメリカ市場は売り一色になりました。87年10月19日ブラックマンデ-の発生です。その後、ドイツも利下げに応じ、暴落は1日で終了します。しかし、その後ドイツは巧妙に金利を引き上げたのに、日本のみがアメリカとの政治的呪縛から逃れられず金融緩和を続け、あのバブルを引き起こすことになります。
この過程で、日本のリ-ダは迫りくるバブル崩壊の悲劇にはまったく気付くこともなく、アメリカにただ追随するだけの政策を「国際協調だ」として得意満面で語っていたことを思い出します。もし、彼らがもう少し謙虚で、日本経済、国民のことを思っていてくれれば、後の悲劇は起こらなかったと思います。
政治リ-ダに監視の目は必要だということだね。また、時間ができれば是非大学に来てください。ディスカッションをしましょう。再会を楽しみにしています。
2014年10月1日
------- 先生、今日の夕刊に1ドル=110円になったと大きく報道されています。どうしてですか、このまま円安は進むのですか。
------- 本当だね、急速な円安の進行です。でも、2008年のリ-マンショック前の水準に戻ったと思えば、それほど驚くことはありません。いつも使っている日銀のHPから、最近の円相場をグラフで見てごらん。2008年以降、円高が急速に進み、2011年10月にはなんと75円のピ-クを付け、2012年以降下方にむかっていることがわかります(http://www.stat-search.boj.or.jp/ssi/cgi-bin/famecgi2?cgi=$graphwnd)。
リ-マンショック以降の超円高がデフレを深刻化させて、日本経済に大きな打撃を与えてきたことは、ゼミの時間やこのコ-ナでしばしば指摘してきました。その意味では、円安は歓迎すべきものです。もちろん、円安にはマイナス面があります。輸入品の価格は上昇すれば、困る人たちもいます。家計でも食料品やガソリンの生活必需品が上昇すれば困ります。消費が抑制され、日本経済にマイナスの影響をもつことは考慮しなければなりません。
今回の円安は9月の日銀短観の調査結果の報告を受けてのことです。日銀短観は正式には「日銀企業短期経済観測調査」というもので、主要企業に対する、景気についてのアンケ-ト調査で年4回実施されます。海外でもTANKANとしてこの発表は大変注目されています。今回の発表は概略を言えば、景気は良くなったと見る企業は前回よりも若干増加したものの、総じて先行きを慎重にみる企業が多いという結果でした。来週には日銀の金融政策決定会合が開催されます。この会合は日本の金融政策を決める最高機関です。この会合では今回の短観の結果を受けて、日本の景気回復はまだまだであり、したがって現在おこなっている「量的金融緩和政策」を今後も継続するという判断が下されると予想されます。他方、アメリカを見てみますと、景気回復は順調にすすんでおり、アメリカ連邦準備議長のジャネット・イエレンは、量的金融政策の出口を考えるべき時期にきているという発言をしばしばおこなっています。市場ではおそらく今月中にアメリカはこれまでの大幅な金融緩和政策を転換させるであろう、と予想されています。
日本は現在の異次元の金融政策とも言われる超金融緩和を継続し、アメリカが金融緩和を止めるとなれば、当然円安、ドル高が予想されます。この予想が成り立った段階で(まだ何も行われていなくても)円を売ってドルを買う動きが強まります。円の供給増加は円安をドルの需要増加はドル高を生むのです。
為替レートの理論はまた後で学ぶとして、当面は日本の金融緩和は円の数量を増加させる、アメリカの金融緩和の中止はドルの数量を減少させる。したがって、円はドルに対して相対的に価値が上がり、逆にドルは円に対して相対的に価値が上がる、その結果、円安、ドル高になると考えれば良いでしょう。
今夜のNHKニュ-スでも円安で大変だ、と盛んに危機意識を煽っていますが、基本的に円安は今の日本経済にとっては歓迎すべきことなのです。それと、今回の短観では、各企業の間で人手不足感が強まっている、と出ています。大変歓迎すべきことです。それは賃金が上昇することの必要条件だからです。
2014年9月9日
----------- 先生、お帰りなさい。ノルウェイはどうでしたか。先生のいない間、大変でした。歩君は亡くなるし、モモちゃんは北海道から逃げてくるし、毎朝泣いていました。
----------- そうでしたか、大変だったね。でも、君も元気そうで何よりです。ベルゲン大学に約1ヶ月滞在しましたが、ほとんど毎日が雨で、寒くて、物価は高いし(缶ビ-ル1個がなんと500円)大変でした。でもノルウェイの人はなかなか親切で有意義な研究生活を送ることができました。研究発表には大学院生も含めて30人近くが来てくれて良かったです。ある教授の「私は銀行倒産で株はただの紙切れになりました」という発言は会場の爆笑を誘いましたが、大変興味深かったです。彼が言いたかったことは、「日本の金融危機が長引いたのは、公的資金の導入が遅れた事であり、その遅れた理由は株主責任を厳格に問わなかったからではないか」という事です。まさに彼の発言は正鵠を射ています。ノルウェイの金融危機は1987年-1993年です。やはり、同国もお馴染みのバブル、バブル崩壊の道をたどりました。つまり、金融自由化→貸出競争→名目金利低下→インフレ、税の恩典→実質金利低下→資産価格(土地、住宅価格)急上昇→担保能力の増加→貸出増加→バブル発生→外生的ショック→バブル崩壊→不良債権増加→銀行倒産→金融危機→デフレ、債務デフレの発生→大不況です。
ノルウェイの金融危機を少し詳しく説明しましょう。1984年に金融自由化が始まります。支店数、行員数は急増し、1984年から1986年に貸付は実に年10%以上で増加します。1986年に原油価格が突然下落します。ノルウェイが他の国と異なるのは、産油国で石油関連の企業が同国の豊かな経済の源であるということです。原油価格の下落は同国経済に大きなマイナスショックとなりました。経常収支は悪化し、そこにヘンジファンドが目を付け、同国通貨クロ-ネは売り浴びせられます。そのため、ノルゲスバンク(ノルウェイの中央銀行)は12月通貨防衛のため金利引上げます、金融引締めだね。それによって、1988年から不況は始まり、住宅価格および株は下落、1988年に失業率は2%から6%に、企業倒産は1986年、1426件、1988年、3891件に、そして続いて銀行倒産がはじまりました。1988年秋に中規模金融機関、スモ-ス銀行が倒産したのを契機に、地方の貯蓄銀行倒産が相次ぎます。1991年には、クリスティナ、フォクス、デンノルスケの3大銀行までも倒産または倒産の危機に陥り、預金保険は完全に枯渇しました。そこで、政府は急遽公的資金の導入を決めました。ここが日本と大きく異なる所です。政府は銀行救済基金を設立し、税金を投入しました。その投入は効果的になされたので、結果的には国民負担はゼロ、むしろ財政コストはマイナスだったのです(2001年GDPの-0.4%)。
その後、1992年12月より変動相場制に移行したことから、いわゆる、開放経済のトリレンマ(固定為替の維持、独立した金融政策、自由な資本移動、の同時不成立)から解放されて、自由に金融政策が実施できるようになりました。さらに、1999年よりインフレタ-ゲット政策を実施し、金融政策の透明性が実現しました。経済は順調に成長軌道に乗っています。
私が今回の研究で主張した事は、ノルウェイのバブルもやはり金融政策、とくにマネーストックが大いに関係しているという事です。この事は、また、別の機会に説明することとします。さて、いよいよ今週からオリエンテ-ションが始まるね。ベルゲンの街の様子、人びと、料理、その他面白い話は今度会った時に話します。楽しみに。また、今日からハナちゃんを視ることにします。
2014年7月22日
---------- 先生、R大の学生です。今週末の試験にむけて頑張っています。半年間講義有難うございました。毎回楽しく受けることができました。講義の中心はバブルがどのようにして生じるか、またそのために中央銀行はどのように金融政策をすべきであるか、であったと思います。結局金融政策さえ上手く行えばバブルも、またその後の金融危機も起こらない、という理解で良いでしょうか。
--------- いくつか同じような質問をもらっています。まとめて答えます。今年は400名近くの受講生で、教室も大きくうまく皆に伝えられたか、心配しています。しかし、何人かの学生諸君はいつも積極的な質問をくれて良かったです。
バブルを金融政策で完全に阻止できるか、これは大変難しい問題です。バブルとは基本的に資産価格(土地、株式)が、その資産を保有することから将来得られるであろう、収益をもとに計算された価格を超えて上昇することです。現実の価格がこの価格を超えてシャボン玉のように膨らみ、そして破裂し、経済に大きなダメージを与えるのです。このようなバブルの事例は歴史的に多く見られます。1600年代にオランダで起きた、チュ-リップバブル、チュ-リップの球根が投機の対象になり、最終的には1個の球根が家一軒分の価格にまで上昇したと言われています。1700年代に起きた「南海会社」をめぐるバブルです。同社は、イギリス政府の債務を引き受ける代償に、南米貿易の独占権を与えられ、人びとに大きな夢を抱かせました。1720年1月には、わずか128ポンドであった株価は急速に上昇し、その年の夏には1000ポンドに達した。この上昇に乗り遅れまいとする人が、また株価上昇に拍車をかけたのです。しかし、株価はその後急落、1年で最高値の1/7にまで落ち込みました。バブルの破裂です。あの物理学者として有名なアイザック・ニュ-トンもこの株に手を出して大損をしたと言われています。講義では詳しく紹介した、1920年代のアメリカのバブル、その後の大恐慌、1980年代後半の日本のバブル、それ以降の長期デフレ、同年代に起きた北欧3国のバブルとその後の金融危機、2000年代初めのアメリカの住宅バブルとその後の不況、人びとは、いつも「今回は違う(This time is different)」と思い込みバブルとその崩壊の波にもまれ貴重な資産を失っていくのです。
そしたら、バブルは事前に阻止できるかという問題です。これは難問です。1990年代のアメリカ経済を長期安定に導き、まさに名指揮者、マエストロとして評価の高かったあのグリ-ンスパン元議長も「バブルは崩壊してみないと、バブルかどうか分からない」と述べています。バブル当時の日銀総裁は「物価が安定し、経済が順調に伸びているときに、金融を引き締めるという決断はできない」とも述べています。経済に本当の力があり、成長を続けている時に、金融を引き締めれば、たちまち需要は減少し、生産力の高まりによる、供給増大を吸収できず、いわゆるGDPギャップが生じ経済は悪化し、失業が発生します。また、グリ-ンスパン元議長は「バブルと判断し、資産価格を抑制しようとすれば、少しの金利引き上げでは効果がない、かなり強い引締めを実施しなければならない、そうすれば、資産価格は下落したとしても経済は大きく混乱することになるであろう」とも述べています。したがって、重要なのはバブルが破裂した後の経済をどのように立ち直すかという点が大事だということです。これは、アメリカの連邦準備の基本的な考えであり、このような立場から日本銀行のバブル崩壊以降の金融政策に多くの注文を付けてきました。そして、それが今のアベノミクスにつながる分けです。
また、講義で学んだ、1930年代のアメリカから学ぶべき(大恐慌を二度と起こさないための)教訓というのもこの考えに基づいたものです。つまり、病気になったらどのようにすれば良いか、という事に考えを集中せよ、という事だね。もちろん、病気にならない方法はあるのか、病気の予兆を見つけ、それに対処する事の方が大事だということは言うまでもありません。確かに、暴飲暴食を続けて、病気になっても良い薬があるから大丈夫だということになっては困ります。事実、アメリカの住宅バブルが大きな悪影響をもたらしたのは、アメリカの金融当局が、バブルが崩壊しても必ず、大規模な金融緩和で救済してくれる、という安心感があったからだという意見もあります。
バブルを事前に阻止する研究ももちろん進められています。金融不均衡全体と経済の関係に焦点を当てた研究、さらには金融機関の監督規制を強化し、金融システム全体の安全性を確保すべきというプルデンス政策についての研究も精力的になされています。しかし、どのような政策をすればバブルは生じず、経済の大きな変動は生じない、という研究はまだ存在しないのが現状です。株で大損したあの天才物理学者、ニュ-トンは「天体の動きは計算できるが、人間の行動は計算できない」と述べたとも伝えられています。当分はさまざまな事例研究を通じて同じ過ちをおかさない方法を探るしかないと思います。私はその一つの方法として、古いと言われるかもしれませんが、マネーサプライの動向に注目することが大切だと思っています。また非常に初歩的ですが、大衆が同じ方向に動いたら、それは危険信号だと思う事が大切です。
今日、7月22日は丁度70年前にアメリカのブレトンウッズで新しい通貨体制が決まった日です。世界経済の安定、発展をめざして、アメリカのドルを中心とする新しい経済体制が確立されました。しかし、その後の世界経済はさまざまな波に翻弄されてきました。君の質問、経済をバブルから守る方法に答えることは難しいです。 私はこの夏休みを利用して、ノルウェイに行って、同国があの80年代末のバブルおよびその崩壊からどのように立ち直ったのか、人びとはどのような体験をしたのか、意見交換をして来る予定です。では、頑張って良い点数をとってください。
2014年6月6日
-------- 先生、モモちゃんがかわいそう、泣いちゃいました!今日の朝刊にECBがマイナス金利を付ける、と出ていますが、分かりやすく説明してください。
-------- いきなり、モモちゃんですか。びっくりしました。昨日の「花子とアン」だね。朝市君に振られ、けなげにも北海道での縁談を決心するモモちゃん、それを何も言わずに優しく抱きかかえる母親、古き良き時代の懐かしい光景だったね。NHKもやりますね。 さて、君の質問ですが、5日欧州中央銀行(ECB)のドラギ総裁は、市中銀行が中央銀行に預ける預金、当座預金に付利する金利をマイナス0.1%にする、と発表しました。
金融論で勉強したように、市中銀行は預金に対して一定の比率(所要準備率)のマネーを中央銀行に預けることが決められています。日本の場合は日銀当座預金というものだね。日米が現在デフレ対策として実施している「量的金融緩和政策」はこの金額を必要な額以上に積み増すことを認めた政策です。日米ではこの超過準備に対して金利が付いています。この金利をマイナスにするというのが今回の報道です。マイナスになればどのような事が起きるか。銀行にとっては余ったお金を中央銀行に預ければ、金利をとられる分けです。ならば、どうするか、積極的に民間に貸出す、企業に投資意欲がなくて貸出が無理なら、有価証券を買う。どちらにしても、民間にマネ-が流れて、マネ-サプライが増加することになります。また、外国債券を買うことになれば、ユ-ロ安になり、輸出拡大に貢献します。もちろん、素人考えとして、中央銀行に預けて金利をとられるなら、銀行は現金でもつことを選択するのではと思いますが、それは個人レベルの話で、巨額の超過準備金を自分の銀行で保有することは無理があります。
ここはもう少し丁寧に説明しますと、民間金融機関は中央銀行に対して、当座預金以外にも金融機関が中央銀行に資金を預け入れることのできる口座をもっています。これが預金ファシリティです。つまり、中央銀行は、当座預金(必要準備プラス超過準備)それに預金ファシリティを持っています。ここで、超過準備と預金ファシリティの金利の両方をマイナスにしたというのが、今回のECBのマイナス金利の正確な説明です。いずれにしても、ECBがこのような政策を始めたのは、ヨ-ロッパでもデフレの懸念が出てきたからです。デフレになれば大変なことは日本の長期デフレで学習しています。それを教訓に早めの手を打ったと理解できると思います。ついでに、日米が実施している、量的金融緩和政策にはどのような効果が期待できるか、まとめておきましょう。 前FRB議長のバ-ナンキがつぎのように整理しています。① 将来の短期金利が低くなることが予想されると、長期金利も下がり、経済活動にプラスになる。時間軸効果(policy duration effect)が生じる。② 中央銀行の購入する資産構成に変化が生じる、とくに長期国債、リスク資産の購入が増加する。③ 中央銀行のバランスシ-トの拡大によって、市中銀行の資産構成が変化する(ポートフォリオ・リバランス効果)、人びとにインフレを予想させる(シグナリング効果)、政府の赤字を中央銀行がファイナンスする。
いずれにしても、日米の量的金融緩和については賛否両論があり、多くの経済学者がその効果について研究をしています。それについては、また改めて説明したいと思います。では、コピット頑張っぺし!!
2014年5月20日
----------- 先生バブル発生の過程がよく分かりました。それで、ついでの質問です。では、どうして、その後日本経済は失われた10年とか20年とか言われる、長期不況に突入することになるのですか。
---------- ついでの質問だね。了解。では「ついでに」答えます。これも金融論の講義では十分説明したつもりだよ。金利の引上げを模索していた日本銀行は消費者物価上昇率が1%を超え、国内卸売物価もプラスに転じたことを契機に(81年2月より46ヵ月ぶり)、89年5月に実に27ヶ月ぶりに公定歩合を引き上げます(87年2月の2.5%から)。同年12月には、三重野康が日銀総裁になります。かれは就任と同時に公定歩合を4.25%に引上げ、その後矢継早に金融引締めを実施し、翌年8月には6.0%にまで公定歩合を引き上げます。まさに急激な金融引締めです。このような彼の引締めについて、世間やマスコミはまるで芝居を見るように、「平成の鬼平」として持ち上げます。バブルを退治する正義の味方という分けだね。当時はバブルによって資産を持つものと持たない者の間に格差が生じ、国民の間に不満が溜まっていたからです。三重野氏は副総裁時代から、日本経済は乾いた薪の上に載っていると発言して、金融引締めの機会を手ぐすね引いて待っていました。澄田総裁の政府の言いなりに金融緩和を続ける姿勢にはイライラしていました(ポリティカルエコノミストの本などを読むと、大蔵省出身の澄田派:国際派と日銀出身の三重野派:国内派の対立があったとか)。
加えて、地価対策として、1990年3月に「融資総量規制」(大蔵省の不動産業への貸出規制)が実施されました。これは、具体的には、四半期ごとの不動産向け融資の伸びを総貸出しの伸び以下に抑える。不動産、建設、ノンバンクの3業種に対する融資の報告義務を求める内容になっていました。さらに、BISの自己資本比率規制を、92度末までに達成することが要求されました。 こうなれば、永久低金利神話とか、土地は最適な資産という考えは全く成り立たなくなりました。人々の期待はバブル期待からデフレ期待に一気に変化しました。さらに、それに輪をかけるように、金融不祥事がつぎつぎに明るみに出て、投資に水を差します。証券会社による損失補填が明るみに、証券会社への信用下落。銀行による巨額の不正融資、住友のイトマン事件、興銀の東洋信金事件などです。国民の金融機関、大蔵省への不信が募り、政府による公的資金による救済は不可能になります(これは北欧の危機において公的資金が速やかに導入され、早期の回復に大きく貢献したのと大きな違いです)。1992年8月には、株価はついに15000円割れ。政府は国民に対して、冷静になることを求め、月末には「総合経済政策」で、郵貯、簡保資金の株式運用を無制限に認め、公的資金の株式市場への投入を可能にしました(いわゆる、PKO:株価維持政策の実施)。
1992年2月の月例経済報告にて、政府が正式に景気後退を宣言をしますが、日銀にはその危機感はまだありませんでした。 三重野氏の急激な金融引締めには政府からの激しい抵抗もかなりありました。1989年12月25日に三重野氏が第三次公定歩合引き上げを実施した時には、橋本大臣は「公定歩合を白紙に戻せ」と発言しました。また、1992年2月13日には、金丸信自民党副総裁が講演で、「金利は日銀総裁の判断で決めることだが、日銀の判断で国民生活が安定するなら、首相はいらない。いま、0.5%の引下げをおこなうべきだ」(日経:92.2.14、朝刊)。さらに27日の竹下派総会で、「公定歩合をあと0.5%下げたい。首相はオ-ルマイティだ。首相の言う事を聞かない総裁は首を切ってでも下げるべきだ」(朝日:92.2.27夕刊)。株式市場が停滞、銀行の不良債権増加の中での苛立つ発言。しかし、マスコミ、世間は日銀に応援。「多くの有識者も金丸発言の“不当性”には、眉をひそめ、日銀本店には「政治の圧力に屈するな」と激励の電話が多くかかってきた。(川北『日本銀行』、pp.75-6)。
ともかくも、このような急激な金融引締めは経済に大きな衝撃を与えました。単なるデフレではなく、債務デフレが発生したのです。それは、簡単に言うと、借金の返済が原因となり、物価の持続的下落と資産価格下落がスパイラル的に悪化することです。借金返済→売上げ増やす→全体として供給過剰→財、サ-ビス価格の低下→デフレ→売上げ伸びず→さらに売上げ増やす→供給過剰・・・・・・悪循環。借金が減らない。株価・地価も下落→借金返済のために土地・株価売却→資産デフレの悪化→企業倒産→不不良債権の増加となります。また、債務デフレは資産価格の下落をもたらし、他方負債は一定であるので、資産-負債=正味資産は減少します。貸借対照表が悪化するので、バランスシ-ト不況と呼ばれます。また、不良債権が増加しますと、その処理によって、自己資本は減少し、自己資本比率を下げることになります。不良債権の増加は銀行の信用を落とし、預金が集まらない。または資金調達コストが上昇する。ジャパンプレミアムはその典型です。不良債権の増加は貸し渋りを生みます。大企業はCPや社債で調達可能ですが、中小企業にはその手段がありません。ですから、商工ロ-ンや闇金融に走り、スキャンダルが生まれのです。不良債権の増加が経済に悪影響を与えるということについて、次のような意見があります。
まず、企業が多額の借金を抱えると、返済に追われて新しい投資ができなくなり、経済が発展しない。② 借金が多くなると企業間の信頼が失われ、いつ相手の企業が倒産するかも分からいと疑心暗鬼になり、分業や協業ができず、身近の安心できる企業としか取引しなくなる。前者をデット・オ-バーハング(債務超過)、後者をディスオーガニゼーション(組織破壊)小林・加藤『日本経済の罠』 経済に悪影響を及ぼす不良債権は90年のバブル崩壊以降減るどころか増加し続けたのです。
初期の段階でも早期に不良債権を公的資金(税金)で処理しないと大変なことになるという意見もありました。しかし、不良債権の処理は先送りされました。その理由は、まず、経営者も政治家も官僚も土地神話(いつか必ず反転上昇する)を信じて、その額を低めに公表あるいは隠ぺいし、その処理を先伸ばしにしたからです。経営者にとってそれは自分たちの責任問題になるからです。政治家も銀行の救済に公的資金を用いることは、国民(投票者)の賛同を得られないと考えたからです。官僚も自分たちの行政ミスを認めることになるからです。また、金融自由化の中、規制金利で確保されていた利益が無くなっていき、金融機関自身に不良債権を処理できる体力がなかったことも事実です。また、不良債権の増加を避けるために、「追い貸し」が行われたことも、不良債権の額を大きくして行きました。 しかし、もっとも大きな理由は三重野総裁の厳しい金融引締め以降、日本経済はデフレに陥り、それが不良債権を着実に増やして行ったのです。したがって、90年代の経済問題はいかにデフレを避けるべきか、であったのですが、金融当局に十分その認識が無かったことが深刻な長期デフレを引き起こした一番の理由です。これで、良いですか。また質問があればして下さい。
2014年4月20日
----------- 先生、卒業生のTです。前回の銀行が美味しい産業からそうでない産業に変わっていく説明、面白く読みました。そこから、何故バブルに突入して行ったかを説明してください。学生時代にもっと金融論を勉強しておいたら良かったな、と後悔してます。
----------- T君、元気そうでなによりです。このコ-ナをいつも読んでくれているようで、有難う。この質問はつぎに来ると予想していました。
この説明をする前には、まずアメリカの経済政策について説明しなければなりません。1970年代後半、アメリカは厳しい不況と高いインフレに悩んでいました。いわゆる、スタグフレ-ションにアメリカ経済は陥っていたのです。 そこで、登場したのが、レ-ガン大統領です。彼は強いアメリカを標ぼうし、大幅減税と規制緩和による企業活力の再生、小さな政府の実現を目指しました。いわゆる、レ-ガノミックスです。しかし、他方で冷戦激化のなか、軍事費は大幅に増加し、また社会法制度改革も遅れた結果、財政の赤字は拡大しました。インフレを抑制するために、金融は引き締められており、金利は上昇し、ドル高が続いていました。このような状況の中でアメリカの経常収支は大幅な赤字になっていました。
このように、レ-ガノミックスによるアメリカ経済の高金利、ドル高政策、および減税、軍事費拡大による財政支出の増加は景気拡大をもたらし、それが日本のアメリカへの輸出を促進したのです。 日本の輸出入は60年代後半に均衡し、2度のオイルショックの時期を除けば輸出超過であり、とくに80年代に入り輸出はレーガノミックスの影響もあり、急拡大します。 田中隆之『現代日本経済』は「日本経済が内需主導の成長路線をとらなかった一方で、アメリカが財政主導で内需を拡大させるという、両国のマクロ経済政策のすれ違いが、日本の輸出の伸びを継続させ、黒字拡大を急拡大させた」(p.15)と述べています。
アメリカはこのような事態に対して、日本への不満を募らせます。とくに、アメリカが得意とし、戦略的にも重要なハイテク製品での輸入増加はアメリカ人に危機感をもたせました。1985年春には、上下両院とほぼ全会一致で対日報復決議を可決した。こうした状況の下で、アメリカ側のよびかけによって、1985年9月にアメリカ、NYプラザホテルに5ヵ国(日、米、独、仏、英)の大蔵大臣、中央銀行総裁が集まります。そこで、プラザ合意が発表されます。その内容は、各国はドル高是正に協力する、対外不均衡の是正のために、各国はマクロ経済政策を実施する。わが国は具体的には、内需拡大を求められます。船橋『通貨烈々』は、この合意の一つの問題は、財政刺激策を避けるために、為替調整をすんなり受け入れたことであると指摘しています(pp.75-6)。つまり、プラザ会議で、1970年代末の機関車論を求められることを両国とも避けたかったから、日独が先頭に立って世界経済を引っ張って行く政策を求められることを避けたから、とくに日本には財政再建が大きな政策課題になっていたから、という分けです。
具体的にどのような政策が実施されたかというと、まず、日米の協調利下げが実施されました。1985年にアメリカの長期金利は10.8%、日本は5.8%で、その差は4.7%で、為替レ-トは1ドル=250円でした。86年8月にはアメリカの金利は7.3%に下げられたのに対して、日本の方は5.2%で、金利差は2.1%にまで縮小しました。その結果、円はドルに対して急上昇し、1ドル=150円台という大幅な円高が実現しました。 しかしながら、このような円高に対して日本の経常黒字は減少せず、アメリカの経常赤字は縮小しませんでした。その間、日本経済は円高によって悪化していました。そこで、アメリカはこれ以上の円高はアメリカ経済にとってマイナスになると判断し、円高、ドル安政策よりも、日本の内需拡大を強く要求するようになりました。
1987年2月にフランスで開催された、G7において、さらなる金融緩和を求められました。このル-ブル合意に基づいて、日銀は公定歩合を2.5%にまで下げました。他方アメリカは公定歩合を6.0%にまで上昇させました。その結果、日米の長期金利差は2.2%から4.5%にまで拡大し、円は正常な水準、140円台まで円安になりました。 マネ-サプライの方は、1987年Q1から急上昇し、1990年Q2まで、10%以上も増加しました。バブルの始まりです。インフレの危険も出てきました。しかし、1987年10月にNYで株価が急落するという、いわゆるブラックマンデ-が発生しました。G7各国は世界不況を避けるために、一斉に金融緩和をとるよう、協力しました。その結果、日本は金利引き上げのタイミングを逸し、金融緩和に協力せざるをえませんでした。 しかし、ドイツ(Bndesbank)は歩合を引き上げて、正常水準にまでもどしました(4.5%)。 日本だけが低金利状態に置かれたのです。
その理由は次の通りです。当時、ドルは円に対して弱く、もし、日銀が金利を上げるようなことになれば、ドルは急落し、債券、株式市場は崩壊し、アメリカは大きな不況になりであろう、と考えられていました。そこで、多くの人は日本は金融を引き締めることはないであろう。金融緩和、低金利は長期にわたって維持されるであろう、と考えたのです。
豊富な資金が長期にわたって供給されるという前提の下で、多くの銀行は積極的に貸出し攻勢をかけます。しかしながら、借手の企業の方は金融自由化によって、銀行からの借入れよりも、自分で起債して資金を得る方が便利でかつ有利でした。エクイティファイナンスが盛んになりました。そこで、銀行は貸出先を求めて、そのような資金集めができないような分野に進出しました。中小企業や不動産業界です。当時は、土地は永遠に上昇するという、土地神話があったので、土地が担保にとれるなら、ということで、大企業以外の企業へ積極的に貸出していきました。 以上がバブル発生の流れです。金融自由化が進む中で金融緩和がバブルを引き起こした、といえるでしょう。また、質問があればメ-ルをください。仕事を頑張って。
2014年3月31日
------------ 先生、「ごちそうさん」が終わりましたね。前回の先生の回答で日本の銀行が大変美味しい業種であったことはとても良く理解できました。では、その業界がそうでなくなって行く過程を説明してもらえませんか。
----------- 君は朝ドラのファンだったね。3月は朝ドラが終わる、ゼミ生は卒業して大学を去って行く、毎年のことだけれども、何か寂しくなるね。さて、前回に引き続きの質問です。一口で言えば、銀行が美味しい業界でなくなっていくのは、金融自由化のためです。
金融自由化とは今まで規制によって守られてきたさまざまな特典が無くなり、銀行が競争社会になることです。銀行をもっとも優遇してきた規制は前回かきました、金利規制です。どこの銀行に預金しようと、金利は同じでしたが、事情が変わっていきます。その変化は、国債の大量発行の始まりに見られます。戦後の高度成長期は政府の財政は均衡していました。1965年の不況で国債が初めて発行されます。そして、1970年代に入り、オイルショックが起き日本中が不況になります。その中で不況対策としての公共事業拡大、また、福祉制度の充実が始まります。当然、政府の財政状況は悪化し、国債発行も増えます。当時国債も金利規制の下にありましたから、低金利の発行でした。しかし、それではなかなか売れない。そこで、銀行グル-プに強制的に国債を引き受けさせていました。そして、1年後にはその国債を日本銀行がそのまま買い取るという仕組みになっていました。この銀行グル-プは、国債引受団(シンジケ-ト)と言います。
ところが、国債発行が少ないうちはその制度でうまく回っていたのですが、国債発行が増えるにつれて、無理が生じてきました。そこで、1976年3月には国債を担保に短期資金の貸借ができる、国債の現先取引が認可されました。つまり、国債現先市場が生まれたのです。この市場では金利が自由に決まります。また、1977年4月には発行後1年以上の国債は自由に売却することが許されました(流通市場の確立)。さらに、国債を引き受ける時には政府の言いなりの価格(額面価格)で引き受けてきましたが、1978年からは、入札制度に変わりました。つまり、政府が金利5%で額面100万円の国債を発行しても、その国債を実際に99.5万円に値切って買うことが可能になったのです。すると表の金利は5%であっても本当の金利はもっと高くなり有利になるわけです。発行利回りはその時の情勢によって変動することになり、国債金利は完全に自由化されました。
国債金利は長期金利に影響を及ぼします。たとえば国債金利が高くなると、長期の貸出し金利が一定のままでは、貸出しは行われず、国債を買う方向に資金は動きます。そこで、長期貸出しの金利も上昇せざるをえません。さらに、1979年からは譲渡性預金(CD)の発行が認められます。この頃から、企業には余裕資金が出てきますので、一時的な余裕資金をCDで運用することになります。これが、預金金利自由化の先駆けとなります。さらに、アメリカからの外圧(とくに84年の日米円ドル委員会)もあり、1985年からは金利がCDに連動する市場金利連動型預金(MMC)と金利が自由に付けられる大口定期預金が創設され、その後その大口は小口化し、自由化はどんどん進展しました。そして、最終的に預金金利が完全に自由されるのは、定期が1993年、流動性預金が1994年です。
以上が銀行を美味しい業界でなくした、金融自由化のプロセスです。明日からは4月、新しい朝ドラも始まるし、新入生も入ってくるので、私も元気を出します。新学期しっかり頑張りましょう。
2014年3月24日
------------ 先生、この春休み銀行を目指して、就活しています。京都学園の理事長に京信のトップの方が就任されたと聞いて張り切っています。でも、前回の先生の回答で、最近の銀行はかつて程、魅力的でないと書かれてあり、少し意気消沈しています。昔はどうして、そんなに銀行は美味しい就職口だったのですか。
----------- ゴメン、ゴメン。そんな事はないですよ。面白い業界だと思います。なぜ、銀行は昔そんなに美味しい業界であったか、説明しておきましょう。
金融論の講義でも説明しているのですが、もう一度整理しておきましょう。話は古くなりますが、日本が戦争に敗れ、戦後高度成長をとげるまでに、日本の金融業の役割は大変大きかったのです。経済が成長するには資金が必要です。しかし、戦後は資金がありません。そこで、政府にとっていかに安くて豊富な資金を確保するかが、重要な政策課題であったのです。政府、とくに大蔵省は銀行を直接コントロ-ルするのです。つまり、規制の網をかぶせるのです。具体的にはつぎのような規制を実施しました。①金利規制、②新規参入の規制、③店舗規制、④業務分野規制です。金利をできるだけ低く抑え、安価な資金が企業に流れるように、預金金利を規制しました。銀行が預金を求めて互いに競争すれば、金利は上昇し、企業に流れる資金も高くなります。新しく銀行ビジネスを始める企業が増えれば、銀行間の競争が厳しくなり、倒産する銀行が出てきます。店舗も自由に設置できるとなれば、これも銀行間の競争を促し、倒産する銀行も出てきます。業務も多様化すれば、競争が厳しくなります。このように、規制を課すというのは、銀行間の競争を排除する政策でもあるのです。
しかも、預金金利なども一番効率の悪い銀行が活動できる水準に設定されました。だから、それ以上の銀行にとっては、預金を集めれば集めるほど利益はドンドンでるのです。これは、経済学では「規制によるレントの発生」と言います。また、このようにして、銀行を守る政策を「護送船団方式」と言います。つまり、船団を組んで進むときに、一番速力の遅い船に、全体の速度を合わせて、落ちこぼれていかにようにする、ことと同じだという分けだね。この制度では、預金を集めれば、集めるほど利益がでます。そこで、過剰な預金獲得競争が起きて、銀行経営が危なくならないように、②、③、④の規制が実施された分けです。規制のレントによって、いつも利益が保証されていたので、どの銀行もその利益を店舗の豪華さ、行員の給料に反映させたのです。だから、銀行員は高い給料を得ることができ、福利厚生も他企業に比べれば大変充実していて、とてもハッピな生活がおくれたのです。
しかし、1980年代にはい入り、「金融自由化」がすすみ、銀行に競争原理が導入されると、この規制レントはたちまち消滅しました。とくに、債券発行が自由化されると、大企業は面倒な審査のいる銀行からの貸付に頼るよりも、自分で債券を発行して、広く資金を集める方が有利になりました。それまで、預金獲得、企業貸付を専門にしていた日本の銀行は、預金がこれまで通り、多く集まってくるのに、優良な大手の企業はおカネを借りてくれなくなったのです。それで、どの銀行も不動産融資に走ったのです。一番惨めだったのは、業務分野規制で、長期貸付を専門にし、日本経済を支えてきた巨大銀行、日本長期信用銀行や日本債券信用銀行は、長期の優良な貸付先を失い、リゾ-ト開発などの美名に踊らされて、不動産融資に進みその結果、98年には倒産、国有化されたことは、君も知っての通りです。
いま、日本の銀行は従来の預金=貸付を中心とするビジネスから大きく変わろうとしています。今はその過渡期で、銀行はこれまでのような意味での美味しい業界ではないということです。前回の回答の中で書きました、「昔が懐かしい、良かった」という行員さんの嘆きはそういう意味だったのです。各銀行は新しいモデルを目指して頑張っています。これからの銀行はいかにあるべきか、それは卒論のテ-マとしても面白いかも。そろそろ春休みも終わり、4月からは卒論、就活と忙しくなるね。頑張りましょう。
2014年2月19日
------------- 先生、来週から、銀行の会社訪問に行きます。それでいまエントリシ-トの確認とゼミで勉強している事を整理しています。大恐慌、デフレ、アベノミクスが、キ-ワ-ドですが、その大恐慌の説明は、ゼミテキスト(ホールとファ-グソン『大恐慌』)にまとめられている、金融政策の失敗が大恐慌を招いた、という理解でよいのでしょうか。
------------- いよいよだね。頑張ってください。ホールたちの本はフリ-ドマンとシュウォ-ツの『アメリカ合衆国の貨幣史』を基本にしています。この本は700ページもある大変分厚く、英語も難しいし、大変読むのに苦労します。私が昔アメリカに行った時、カリフォルニア大学デ-ビス校の図書館に10冊も経済学部の必読書コ-ナに並べてあったのを覚えています。この本は1963年に出版され、昨年が丁度50年目になります。昨年はそういう事で、学界でも見直しがなされ、同書に対するいくつかの論文もでました。
この本は、1867年から1960年のアメリカについて、マネーと実体経済の関係を丁寧に調べ、物価や産出が変化した時期にはやはりマネーも変化していた、という関係を発見したのです。経済は自然科学と違って、試験管を使った実験はできません。しかし、歴史的事実を丹念に調べることが実験になるので。彼らはそれを、自然科学の「管理実験」に対して「自然実験」と呼びました。
ただ、マネーと物価、産出が同じように変動しているからといって、マネーが原因とは限りません。物価が上がったことが原因かもしれません。これは、経済学では「識別問題」といって大変厄介な問題です。かれらは、それを資料によって丹念に調べて解決したのです。ゼミで君たちが発表したように、1928年にベンジャミング・ストロングが亡くなったことにより、連銀の中で権力闘争が起き、まともな金融政策が実施されない中、経済は急速に悪化していった。このことを様々な資料(証拠)から明らかにし、彼らは識別問題を解きました。
この本の中心は歴史的変動がもっとも大きかった、第7章「大収縮」です。つまり、大恐慌という自然実験です。ホールたちもこの章を中心にまとめました。この章は幸いなことに、日経BP社から『大収縮、1929-1933』(久保恵美子訳)として一昨年出版されました。一度手にとって読んでごらん。もちろん図書館にもあります。英語は辛いが日本語は大変楽です。
この本については、もちろん批判もあります。その批判はまず、マネーの動きに向けられました。1929年から景気は大きく減退し、その一方でマネーも減っています。しかし、物価で割った実質マネーの方は増えているのです。なぜなら、景気が悪くなり物価が大きく低下したからです。マネ-を見る場合、単純に名目マネーを見るのではなく、物価で割った実質マネ-を見なければいけません。なぜなら、同じマネーの量でも物価が一定の時のマネーと物価が2倍になったときのマネ-とでは、購入できる物の量が変わるからです。その実質マネーが減らずに増えているではないかという批判です。確かに理屈です。また、金利も1929年から31年まで低下し続けています。これも、もし連銀が本当に金融緩和していなければ、金利が下がるはずがない、という分けです。これに乗じて、テミンという経済学者は、大恐慌はマネ-の減少で生じたのではない、株価が暴落して、人びとが不安になり、消費が落ち込んだからだと説明します。したがって、マネーの減少と大恐慌は関係ないし、また連邦準備にも何の責任もないと主張します。簡単にいうと、君たちがマクロ経済学で習ったIS曲線が株価下落の結果、左にシフトして、LM曲線との交点が左下に移行した、つまり、金利が低下し、産出が下落したと考える分けです。
この批判については、昨年ロ-マというマクロ経済学者が、実質金利の観点から批判しました。この考えは前からある考えですが、彼女は当時の経済雑誌の記事から人々のデフレ期待がどの程度であったかを探りました。すると当時の人々は連銀の態度(金融緩和をしない)から、相当厳しいデフレ感を抱いていたことを知りました。名目金利は下がっていたが、デフレ期待が大きかったから、実質金利は高い水準にあった。実質金利が高いと、当然投資も行われません。したがって、経済は需要不足で悪化して行ったと考え、経済が悪化するのに、金融緩和をしない連銀の態度が、人びとにデフレ感を醸成し、実質金利を上げて、経済を悪化に導いた、つまり、大恐慌の原因はやはり連銀にあった、とうことです。
そうです、だから君の質問、大恐慌は金融政策の失敗にあったと考えることは正しいのです。君は金融機関志望だったね。頑張ってください。先日、たまたま銀行の人と話をする機会がありました。昔は毎週金曜日には女子行員たちと飲み会やって盛り上がっていましたが、近年はそのような雰囲気は全くなく、合併で業務は複雑になるし、給料は伸びないし、と大いに愚痴をこぼしていました。どうも、水を差すようなことを言って申し訳ないです。でも金融機関はなんといっても経済の核です。重要であり、面白い職業に変わりはありません。頑張り屋の君には、大いに期待しています。
2013年10月20日
------------- 先生、先週末にキャンパスプラザで開催された、東大の吉川洋先生の「日本経済とアベノミクス」、あいにくバイトが入り行けませんでした。どんな内容でしたか。簡単に教えてください。
------------- バイトでしたか。あれほど、何度も行くようにと言っていたのに、仕方がありません。今回の講演会は経済学部が2015年4月に亀岡から京都市内に移転することを記念して開催されたものです。当日は、あの吉川先生が来るということで、京都市内だけではなく、滋賀、大阪からも多くの人が来られ、会場は満員の大盛況でした。吉川先生はさすが、わが国を代表する経済学者です。経済学に馴染みのない人にも、よく理解できるように、豊富なデ-タを使いながら、丁寧に説明され、一般聴衆の方も大満足で帰られました。
吉川先生は現在政府の財政制度等審議会の会長を務めておられ、わが国の財政事情に大変詳しい経済学者で、経済学的に言えば、生粋のケインジアンです。講演内容は主として、日本の財政の現状についてで、消費税を上げることも止むを得ない危機的な状況にあることを説明されました。 具体的には、2013年度の予算でみると、一般会計は90兆円だが、その内税金による収入(歳入)は44兆円しかなく、その不足分46兆円は借金(赤字国債)で賄われる、つまり国の支出(歳出)の半分以上が借金ということになる。この不足額はバブル崩壊の1990年頃から急拡大して今日に至っているという分けです。その不足額は赤字国債を中心とする政府債務の累増となり、今では1000兆円を超えるに至った。
では、その支出はなぜ増え続けるのか。ここが、吉川先生が一番強調された所で、支出の太宗は年金、医療、介護にかかる社会保障費で、昨年度で実に28.7兆円にまで増加、この20年間で実に2倍に増えている。あの評判の良くない公共事業費は年々削減されて6兆円ほどでしかない。社会保障費が総支出の3割を占め、いかに多額であるかを図でもって示された。そして、急速に進む高齢化社会の中で、その支出額は毎年確実に増加する、したがって消費税の引上げによって、社会保障費の増額に対応しなければならないと、財政健全化の必要性を強調された。
また、経済再生については、日米欧の賃金を比較され、日本の賃金がバブル崩壊以降年々下降し続けており、これが日本のみがデフレで苦しんでいる原因であると説明された。この賃金を上げるにはどうすれば良いか。それは技術革新によって企業の生産性を上げること、とくに女性、高齢者に焦点を当てた開発が望まれる。Drive the car(自動車を運転する)ではなく、Driven by the car(自動車が勝手に運転してくれる)という発想が重要であると指摘されました。
以上のように、吉川先生の講演は多くの人たちに大変有益であったと思います。ただ、吉川先生は先に述べましたように、生粋のケインジアンで、君たちがゼミで勉強している、マネタリストの立場とは基本的に異なります。とくに、金融政策に関する箇所ではそうでした。でも、日本の財政の厳しさ、今後のイノベションの重要性、これらはとても重要な指摘であり、参加された一般市民の方にとっては、大変勉強になったと思います。帰宅される方たちの満足げなお顔を拝見でき、私も大変嬉しく、今回の「太秦キャンパス移転」記念講演会は大成功であったと思いました。
吉川先生とお会いするのは今回が初めてでしたが、お忙しいスケジュ-ルの中から今回の地方での講演を快く引受けてくださり、当日は経済学部の教員達とも1日お付き合いいただき、先生の誠実さ人柄の良さに触れることができ、私自身も大変気持ちの良い日を過ごすことができました。今度またお会いする機会があれば、ゼミでの指導や教育方針についてもお聞きしたいと思います。
2013年9月15日
----------- 先生、今年の夏はどうでしたか。僕は遊び三昧というところでした。12月の関東学院大学でのインター大会の論文もまだ半分もできていません。でも、これから頑張ります。先生の方はどうでしたか。研究は進みましたか。もう、夏休みも終わりです。早いですね。
----------- メ-ル有難う。遊び三昧とは、それは困りました。インター大会の論文締切りに注意してください。しかし、大学生の夏休みは本当に素晴らしい。大いに青春を楽しむこと、それはそれで結構です。 私の方は8月に入ってすぐ、ヘルシンキに行ってきました。ヘルシンキ大学の経済研究所で1ヶ月研究活動を行いました。前から行っている、金融政策の効果についての研究です。滞在期間中に論文報告をすることが義務付けられていたので、少し焦りながらもなんとか無事済ませてホットしました。
ヘルシンキはフィンランドの首都ですが、大変小さい奇麗な街です。街には昔の京都の市電をさらに小さくした路面電車が市内を循環していますので、それに乗れば1時間ほどで市内巡りができます。研究所は街のど真ん中にあります。したがって、建物の中には食堂もなければカフェもありません。お昼になるとそれぞれ街の食堂に行きます。もちろん、パンやバナナで済ませる人も多いです。研究所とアパ-トの間に観光名所があり、朝早くから観光バスが数多くきていました。その大半は中国の人たちで、中国の人たちのパワ-には圧倒されました。研究所の近くにはフィンランド中央銀行があり、大学との研究交流も積極的に進められています。ただ、フィンランドは今はユーロに加盟していますので、金融政策を独自おこなうことはできません。その意味で、金融政策の研究は少ないです。
私の研究は、同僚のM先生と進めている、日本が初めて実施し、アメリカや欧州でもとられている量的金緩和政策は本当に有効か、どうかというものです。ポイントは金利がゼロの状況では、中央銀行がいくらお金を増やしても、それは全て保有されてしまって、経済には流通しないと、考えられます。正常な経済状況の下では、中央銀行が新しくおカネを印刷して銀行から債券を購入すると、債券の価格が上昇し、その反対に金利が低下します。金利の低下は投資、消費を刺激し、経済を活性化します。しかし、今日のように金利がゼロの状況の下では、中央銀行がいくらおカネを印刷して銀行から債券を買ったとしても、単に債券と現金が入れ替わっただけで、実体経済に何の変化もありません。したがって、金融政策は金利ゼロの下では無効ということです。これは、マクロ経済学の時間に習った、「流動性のワナ」いうものです。
ここからが、私たちの研究です。まず、最初に日銀が増やしたおカネと生産量(実質GDP)と物価、この3つがどのように関係しているかを統計的に調べました。すると、おカネの増加に伴って、生産量、物価も共に上昇することが分かりました。金利がゼロの状況でも金融政策は効いているのです。ただ、このような研究はすでに何人かの研究者によって明らかにされており、私たちが最初ではありません。先の研究者の成果を確認しただけです。つぎに、私たちが目を付けたのは、国民の保有するマネ-(具体的には現金プラス預金というマネ-ストック)の内で、単に保有されるだけで、実体経済に回らない部分がどれだけあるかを調べました。いくら私たちの周りにおカネがあったとしてもそれがすべて使われないで、人びとの手許に蓄えられていたとしたら、どうしようもありません。では、手許に蓄えるというのはどのような場合でしょうか。一番の例は経済が悪くなってきて、銀行からおカネを借り入れられない可能性があるときです。その場合には、人びとはおカネをできるだけ多く持っていようと思います。
本当にそのような経済効果を持たないおカネがどれくらいか、測定可能か。その問題に挑戦しました。一応その値を計算することができました。それによれば、2001年に日本銀行が初めて実施したおカネをいくらでも刷りますよ、という量的緩和政策の結果、手許に蓄えておこうというマネ-の量が減少し始めたのです。そして、経済活動に向かうマネ-が増加する傾向を見せたのです。そして、そのマネ―は生産量と物価にプラスに影響を与え始めた、という統計結果を得ました。いくらマネ―を増やしたって、流動性のワナに陥っている現状では、何の効果もないという人たちの主張に対する反証ができたのです。目の付け所は間違っていないのですが、不要なマネ―の測定方法については、まだ問題なしとは言えないと思います。今後の課題です。その研究については、関心のある人は、次を参照してください。
https://helda.helsinki.fi/handle/10138/40710
さて、もうすぐ秋学期の始まりだね。秋学期のゼミはインター大会を念頭に頑張りましょう。
2013年5月21日
------------ 先生、日経平均の上がり方が凄いですね。いま、ヤフーで検索したら、15,388円で年初来の高値更新。これって、先生がいつも言っている、「レジームチェンジ」が起きたということですか。
------------ 私もいま、確認しました。日経平均は凄い勢いだね。あの大恐慌を見ても、確かに1933年にルーズベルトが大統領になり、アメリカ国民の心情は大きく変化しました。アメリカ国民は長引く不況にうんざりだったからね。そこに、やりての新大統領が誕生し、「今こそアメリカ再生のために立ち上がろう」というようなスロ-ガンが声高に叫ばれる。つぎつぎ繰り出される新しい政策に人びとは期待した。もちろん、その中には後に批判される政策も含まれていましたが、とにかく人びとには高揚感が溢れていた。ルーズベルトの新政策の中でとりわけ思い切った金融緩和政策、金本位制からの離脱が人びとにアメリカの明るい将来を確信させました。アメリカ経済にレジ-ムチェンジが起きたのです。レジ-ムチェンジ、つまり経済や政治の仕組みがこれからは新しく変化する、と国民が感じることだね。
昨年末に成立した安倍内閣は、3本の矢(金融緩和、財政政策、成長戦略)を基本政策とし、とくに日銀の政策を強く批判することによって、デフレ対策に強い決意を示した。長期のデフレ不況にうんざりしていた国民もマスコミもこぞって安倍内閣の政策をアベノミックスとして称えた。大恐慌の終わりとよく似ているね。レジ-ムチェンジが起きているのです。
ちなみ、レジ-ムチェンジの有用性を最初に明らかにしたのは、あの合理的期待理論でノ-ベル賞をもらった、ト-マス・サ-ジェントです。彼は第一次世界大戦後のドイツなどのハイパーインフレを研究して、あの超インフレが終息したのは、貨幣の信用裏付けのために金本位制が採用され、さらには中央銀行が設立されるなどして、人びとが将来の物価安定を確信するようになったからだと結論付けました。 また、メ-ルください。頑張って!
2013年1月23日
------------ 先生、明けましておめでとうございます。卒業生のMです。いよいよ日銀もインフレタ-ゲットの実施に踏み切りましたね。白川総裁の写真が今日の朝刊に出てますが、本当に気の毒なくらいな表情ですね。なんか、恫喝されてるみたい・・・・・。
----------- おめでとう。元気そうで、何よりです。今日はM君を初めとして同じようなメ-ルをいくつかもらいました。まとめて返事します。君が言っているのは、読売朝刊のトップに出た写真だね。本当に、安倍総理、麻生副総理、甘利経済財政相の片隅に小さく俯いて座している姿を見ると、今度は本当に「日銀の独立性」大丈夫?と心配になるくらいだね。でも、日銀と政府が協力して国民のために最善の政策を実施するということは大変重要です。今回の日銀の金融政策決定会合を受けて、政府と日銀が出した共同声明の主な内容は、①物価上昇率を2%にすると明確に示したこと、②期限を切らずに国債などの金融資産を買入れること、です。このコ-ナでも紹介しましたが、昨年2月14日に日銀はインフレ目標らしきものを宣言しました。しかし、それは、目標ではなく、目途、それも1%という低い値です。これでは、多くの人はとてもデフレはこれで終わりだ、なんては思いません。
ここでデフレを終わらせるには、どのような筋道が具体的に考えられるでしょうか。まず、学生時代に習った、貨幣数量説を思い起こしてください。例のMV=PYというものです。M、V,P,Yはそれぞれ順に、マネ-サプライ、流通速度(貨幣の回転数)、物価、生産量(実質GDP)です。これは、今日貨幣数量理論と言われるぐらい、マクロ経済を理解する上での根本の考え方です。V、Yを一定とすれば、MとPは比例し、ここから、インフレもデフレもMの影響という命題が導かれるのです。問題は金利が限りなくゼロに近い水準にへばっている時には、いくらMを増加したとしてもPには影響しない、ということです。Mと債券が完全に代替的となり、Mの増加はすべてそのままMとして保有されるという、いわゆる「流動性のワナ」に陥ることになるのです。簡単に言えば、いろいろ資産選択に頭を悩ませるより、いまは現金が一番重宝というわけだね。貨幣数量説の式でいえば、Mの増加がVの低下で吸収されて右辺のP,Yになんら影響しないというものです。Mが増えても、流通しないものですからVが下がっていくのです。だから、金融政策は効かないという分けです。
日銀もMとPないしYとの関係は1990年以降崩れてしまった、という論文をいくつか発表しています。本当にそうなのでしょうか。私たちはその点に疑問をもって、MとP,Yの関係について調べています。Mは経済活動に使われる部分と経済が不安だからとにかくMのままで持っていましょう、という部分に2分されます。景気の良いときには、この部分はほとんどありませんから、MはそのままPやYに影響します。しかし、不況になるとこの部分がやたら多くなり経済に回るMは少なくなります。例えば、Mが100あっても90が保有され続ければ、Mは10しかないのと同じです。私たちはこの残りの10とP、Yの関係を見たら、見事に密接な関係にあることを発見しました。したがって、MはPやYと依然として、密接な関係を持っているのです。貨幣数量説が依然として成り立つのです。Mは経済不安からくる保有される部分を除いて、という但し書き付きですが。ここまでくれば、話は明らかです。デフレ脱却には、①まずM自体を増やすこと、②Mが増えないのであれば、不安から保有にまわっているMの部分をできるだけ少なくすること、が考えられます。Mは現金プラス預金です。銀行の貸出が預金を生むわけですから、銀行貸出が増えない段階では預金は増えず、したがってMも増えません。しかし、何らかの人々の不安要因を払しょくする施策をとれば、全体としてのMが増えなくても、保有されている消極的マネ-の部分が減ります。その結果、P,Yは上昇します。さらに、そのような状況になれば、銀行貸出も増え、M自体も増加するでしょう。そうすれば、デフレ脱却が可能になります。人々の不安要因を減らす政策、その一つがインフレタ-ゲットなのです。
「病は気から」と言われますが。「経済も気から」なのです。経済はこれから上向きますよ、という強いメッセ-ジを発することが大切なのです。日銀には金融政策は効かない、という論文ばかり出さないで、もっと前向きになれる論文を書いて欲しいですね。 今後の日銀の動向をしっかりと見ていきましょう。やっぱり、日銀はインフレを起こす気はないのだと、みんなが思ってしまえば、またもとに戻ります。
卒業しても君たちは私の学生です。どんどん質問、メ-ルをください。
2012年11月6日
--------- 先生、昨日、学園大学主催の内閣府の講演会:「日本経済の現状と課題-経済財政白書を中心に-」に行ってきました。少し肩すかしを食った感じで、何かスッキリしませんでした。今、日本経済にとって一番の問題はデフレをどうするか、ですよね。結構期待して行ったのですが、その話はほとんど無かったです。バイト休んで行ったのに・・・・・トホホ。
--------- 行きましたか。バイトも休んで偉いです。おそらく、君は今の日本経済が悪いのは、デフレだから、そのデフレを起こしているのは、日本銀行の金融政策に問題があるからだ!!、という話を期待して行ったのでしょう。その期待は間違っていません。『経済財政白書24年度』第1章には明確に書いてあります。P.86の第1-2-24図は2008年のリ-マンショック後の日本と欧米諸国の金融緩和の違いをマネタリ-ベ-スによって示しています。日本はアメリカやイギリスに比べて、ほとんどマネタリ-ベ-スが増加していないことが見て取れます。また、欧米に比べて金融緩和をしないから、為替市場で円高になって、日本経済を痛めているとも述べています(P.89の第1-2-26図)。さらには、2006年の日銀のゼロ金利解除は間違いであった、とまで書いてあります(pp.90-92)。まさに第1章は君の期待していたことが書いてあります。ぜひ、以下のアドレスで確認してください。
http://www5.cao.go.jp/j-j/wp/wp-je12/pdf/p01023_2.pdf
http://www5.cao.go.jp/j-j/wp/wp-je12/pdf/p01023_3.pdf
では、日銀はこれについてどのように考えているか、知っておくことは重要です。総裁の白川方明氏は最近の講演「セントラル・バンキング-危機前、危機の渦中、危機後」(2012年3月)で、過度の金融緩和は次の理由で、効果がないばかりか危険だと言っています。① 非効率な企業を温存させる、② 資源配分は歪になり、経済成長を妨げる、③銀行の貸出意欲がそがれる、④新興国のバブル、原油などの国際商品価格をつり上げる。
http://www.boj.or.jp/announcements/press/koen_2012/ko120326a.htm/
また、別のレクチャ-ですが、「金融政策はScienceではなくてArtである」と述べています。「金融政策は理屈じゃない、現場を知らない者は口をだすな」ということでしょうか。
ただ、今回の講師の方は第3章の執筆責任者であり、3章のテーマ財政の持続性を中心に説明されていました。ここも大変重要です。財政規律の問題点を国債のリスクプレミアムの概念を使って、上手く説明されていました。日本国債も利回りが低くて一見安全に見えるが、国債利回りと将来の平均金利(OISレート)の差でみた、リスクプレミアムを考慮すればかなり問題があるという指摘は重要でした。ここの説明にはかなり時間をかけて説明されていて、私には大変勉強になりましたが、君にはまだ少し難しかったかもしれないね。バイトを休んで、講演会に出たことは決してマイナスにはならいよ。日本銀行と政府は意地を張らないで、互いに仲よくしてほしいね。夫婦喧嘩で一番困るのは子供だからね。 では、頑張って。
2012年9月14日
---------- 先生、今夜のニュ-スで見ました。アメリカがQE3を実施したと。それって、経済にマネ-をジャブジャブに注入しようという政策ですね。アメリカ経済もそこまで悪いのですか。もう少し解説してもらえませんか。
---------- 質問を有難う。QEとはQuantitative Easing(量的緩和)の略で、2008年のリ-マンショック後に第1回目のQEを実施し、今回は3回目の実施です。QE1が2008年11月から2010年3月(合計1.7兆ドル)、QE2が2010年11月から2011年6月まで(合計6000億ドル)、それぞれ実施されました。連邦準備理事会(FRB)は日本銀行に相当するもので、日銀政策決定会合に当たるものが、連邦公開市場委員会(FOMC)です。今回のQE3はこのFOMCのメンバ-12人中11人の賛成で決定しました。
なぜ、三度目の実施に踏み切ったかというと、物価は比較的安定しているが、雇用が依然悪く、リ-マンショックで失われた雇用800万人の半分以下がまだ職場復帰できておらず、失業率は8.1%の高止まり状態にある。そこで、この雇用を回復する手段として、今回の政策が決められた。今回のような連銀の大量のマネ-投入は金融資産を豊富に持つ、金持ちをさらに金持ちにするのではないか、という懸念に対して、バ-ナンキは「ウオールストリ-ト(株式投資で儲けている金持ち)のためではなく、メインストリ-ト(汗水たらして働いている企業や勤労者)のためである」とはっきりと明言し、次のように説明しています。
その中身は、連邦準備がMBS(住宅担保証券)を期限未定のまま、毎月400億ドルずつ買い続けるというものです。簡単に言えば住宅資金市場に毎月400億ドルの資金が入ってくるということです。そうすれば、住宅ロ-ンの金利は下がり、住宅価格も上昇します。住宅価格が上昇すれば、人びとは住宅を売却しなくても、リッチになったと考え消費を増やします(資産効果)。もちろん、住宅を買いたいという人も増え、各種住宅関連の商品に対する需要も増えます。住宅市場の金利低下は他のさまざまな金融市場にも波及し、株価の上昇にも繋がります。それはさらに消費、投資を促すことになり、経済の改善に寄与します。 インフレの心配については、現在も2%の適切な水準に落ち着いており、今後もし上昇するような事があれば適切な措置をするという自信を見せています。まず、当面は雇用改善が重要だというわけです。また、現在のゼロ金利がさらに続くと、退職者などの金利収入が減少し、それが消費を抑えるという懸念については、経済がまず改善すれば回りまわってそのような人たちにも恩恵が及ぶと答えています。いつまでこの政策を続けるかという質問には、2015年半ばには経済も回復するだろうから、それまでは続けると答えています。また、金融経済学者ウッドフォ-ドの提唱する、名目GDPタ-ゲット案については、今回の政策は市場の信頼に足るものであり、予想形成を重視する彼の提案とも整合的であると答えています。当然のことながら、金融政策が経済のすべての問題を解決できる万能薬(panacea)ではないと断っています。今回のQE3についてのバーナンキの記者会見の模様は下記で参照できますから、確認してください。
http://www.federalreserve.gov/mediacenter/files/FOMCpresconf20120913.pdf
さて、いよいよ来週から秋学期の開始だね。また、教室でディスカッションしましょう。
2012年8月25日
--------- 先生、市民新聞を見ました。学園大学の京都太秦への移転が決まった、と新校舎の写真入りで出ていました。良かったですね。夏休み最低2冊は読みなさい、と先生が言っていたので、とにかく1冊、『デフレの正体』という本を読みました。日本の経済がなぜ良くならないのか、分かりやすかったです。経済が悪いのも、就職氷河期も原因はすべて人口が減っているからだ、と書いてありました。納得しました。でも、それって先生がいつも言っていることとは違いますね。本当のところ、どうなんです。
--------- 夏休み元気良く過ごしているようで、何よりです。新キャンパスなかなかの人気のようだね。さて、本を読んだとのこと。この本は大変なベストセラ-のようで、私も昨年に読みました。ごく簡単に要約すると、1995年ごろから、「人口オ-ナス」が始まった。それが、今日のデフレの原因だというのです。「人口オ-ナス」というのは、15-65歳の働き手の人口(生産年齢人口)が減って、高齢者が急増していること、だそうです。この本によれば、高齢者は自動車も買わないし、外食もしない、つまり消費増加に貢献しない、それどころか高齢者比率が増加したことによって、日本全体の消費が減った。つまり消費を牽引する、若手(この本では消費年齢人口と呼んでいる)が減ったことによってデフレ不況が生じている、という分けだね。構造的に需要不足の下ではいくら、金融緩和をやってもデフレ脱却は不可能と、かなり手厳しい。基本的には日銀がいつも言っているのと同じだね。たしかに、君が違和感を感じたのも納得です。 人口減少とデフレが本当に関係があるのか。それは統計的に調べる必要があります。実は政府がすでに行っています。昨年、大学で実施された内閣府の公開講演会『平成23年度の白書を読む』には出席しましたか。そこでは、あまり強調されなかったので、気が付かなったかもしれないが、世界の多くの国を対象に、生産年齢人口の増加率と物価の変化率の間に、どのような関係があるかをグラフと簡単な回帰式で示しています。その結果、はっきりと「生産年齢人口が減少しているからといってデフレになるとはいえない。生産年齢人口の減少が物価下落に結びつくための仲介的な、第三の要因があって初めて、我が国のような生産年齢人口の減少と物価下落の併存が生じていると考える方がよさそうである。」述べています。『平成23年度経済財政白書』を見てください。ネットでも見られます。
http://www5.cao.go.jp/j-j/wp/wp-je11/11b00000.html
この内閣府の『経済財政白書』もデフレ要因として人口減少を否定しているものの、金融政策の効果については、銀行部門の貸出しが増えていないから、として否定的です。ここは重要なポイントです。金融緩和が十分なされているかどうかを問題にしなければなりません。もし、本当に十分な金融緩和がなされているのなら、人びとの物価上昇に対する期待は大きく膨らむはずです。そうなれば、貸出しも自然と増えるわけです。人びとは依然としてデフレ期待を持っているから、お金を保有し、流通させないのです。夏休みの後半は2冊目としてこの点を論じている本を探して読んでください。敢えて、本の紹介はしません。自分の足と目で探す、それも勉強です。
2012年4月20日
------------ 先生、今年卒業したAです。今日の朝刊に三重野康氏が亡くなった、と出ていますね。三重野さんて、先生の講義によく出てきた、鬼平さん、のことですよね。
----------- 元気で頑張っているようで、何よりです。毎年4月はそうなのだけれども、なんとなく寂しい思いをしています。キャンパスで良く似た学生を見かけると、間違えてつい声をかけそうになり、そうかもう卒業したのだと思いなおしています。
さて、君の指摘通り、三重野康氏は1989年12月に第26代日本銀行総裁に就任するや否や矢継早に金利引き上げを実施して、バブルを破裂させた人です。日銀は当時としては大変低い2.5%の公定歩合を1986年から1989年5月まで続けてきました。その結果、マネ-は年率10%以上で増加し、土地、株の急激な上昇を引き起こしていました。そこで、三重野氏はバブルは国民の間に大きな不公平を生む、悪だと考えて、就任直後の1989年12月に3.75-4.25%に3回目の公定歩合引上げを実施し、1990年8月には6%にまで上昇させたのです。このような彼の政策について、多くのマスメディアはまるで芝居を見るように彼を「平成の鬼平」とはやし立てました。鬼平とは池波正太郎の『鬼平犯科帳』に出てくる、火付け盗賊改方の長官、長谷川平蔵、鬼の平蔵こと、人呼んで鬼平です。地価バブルという悪を退治する正義の味方というわけでした。 彼の過激な政策でそれまで、10%以上で増加していたマネーは急減し、1991年にはついにマイナスになりました。それに応じるように、株価は1989年12月29日の大納会に38915円をピークに急落し、地価もその後下落を続けることになるのです。彼の政策はその後の日本の長期不況の引き金を引いたのです。世界の多くの政策担当者は彼の政策を重要な教訓とするようになりました。
余談ですが、先月、東京に行った機会に日銀の中を見せてもらってきました。そこに、赤い絨毯を引いた廊下(「松の廊下」と呼ぶらしい)があり、その両面に歴代の日銀総裁の大きな肖像画が飾ってありました。案内してくれた人の説明によると、絵心の無い私にはどれかよくわかりませんでしたが、これらの肖像画の中には芸術的に非常に優れたものがあるそうです。でも、その肖像画が26代以降はありません。三重野氏が最後です。その理由を尋ねようと思いましたが、何となく聞きそびれてしまいました。新聞報道によれば、三重野さんという人は本当に人間としては立派な人で尊敬に値する人のようです。私は君たちにいつも言っているあの言葉を思い出してしまいました。The road to hell is paved with good intentions
それでは、元気で。また、メ-ルをください。
2012年2月15日
--------- 先生、今日朝刊を見ました。日銀がやっとやりましたね。インフレ目標政策の実行ですね。いよいよ重い腰を上げてデフレに取り組む気になったと理解してよいでしょうか。
-------- そうだね。昨日開催された「金融政策決定会合」で日本銀行は、「中長期的な物価安定の目途」を新たに導入し、当面は1%を目途とすることを決定したと発表しました。日銀もいよいよデフレ対策に取り組むか、と思いたいですが、なんか世論に押されてやむなく、お茶を濁すような感じがしますね。その理由は、1%を目途というのは、あまりにも低いですし、「目途」という言葉にも強い決意がみられません。さらに、インフレ目標政策が注目されるのは目標値が達成されない時には、中央銀行は説明責任を負うということです。それほどに中央銀行がインフレ政策にコミットしていると国民が感じ取るからデフレ脱却ができるのです。しかし、今回の日銀の発表を見てみると、達成できなかった場合の説明責任はなにも明示されていません。それどころか、白川総裁自身がその直後に行われた記者会見で、「デフレは金融の問題というよりも、企業の弱体化、少子高齢化、経済のグロ-バル化の問題である」とか、「たとえインフレになっても経済は良くならない、1970年代の石油ショックによるインフレを見ればそれが理解できるでしょう」、などと言っています。極端に言えば、金融政策はデフレには無縁というお考えです。
先日の市民講演会でも言いましたように、日本経済にとって何が一番の問題か、それは私たちの豊かさを示す日本全体の所得、いわゆる「名目GDP」が減り続けていることです。現在のGDPは実にバブル崩壊直後の1992年のGDPと同じ水準にまで減少しているのです。それは、物価が下がるというデフレが起きているからです。デフレがすべての原因です。そのデフレを克服することが、重要なのです。それができるのは日本銀行しかないのです。だから、多くの識者はもっと金融緩和をしろ、インフレ目標政策を実施しろ、と言うわけです。国の債務が増えて国の債務比率(債務/名目GDP)が200%を超えるにいたったのも、デフレだからです。デフレのために企業の収益も上がらず、国の税収は落ち込み政府の赤字が増え、国債を発行せざるを得ません。また、名目GDPもデフレによって下がり続けています。分母が減り、分子が増加するのですから、国の債務比率は自然と上昇し続けます。前回のM君の質問にも答えましたように、デフレが続けば円高は進むのです。円高は当然日本経済に大きなマイナスの影響を及ぼします。
話をもとに戻しますが、今回、日銀がインフレ値を明示したことは、一歩前進ですけれども、日銀の政策スタンスは何も変わっていないと思います。したがって、君の喜ぶようには私は喜んではいません。
さて、就活はどうですか。エントリシ-トができたら見せにきてください。
2011年10月6日
―――― 先生、「おひさま」終わりましたね。僕の朝の楽しみでしたから少しさびしいです。質問です。いま、ヨ-ロッパの銀行が大変みたいですね。それってギリシャの影響ですよね。詳しく教えてください。
―――― 君も朝ドラフアンだったね。私も母も祖母も大好きで、子供のころから、朝食をいただきながら見るのが習慣になっています。何か今日も頑張ろうって、元気になるよね。
さて、君の今日の質問ですが、今日の日経1面に、「欧州銀、資本増強を」という見出しで、ドイツのメルケル首相はさらなる自己資本充実に動く用意があると述べた、とあります。そして、フランス・ベルギ-系の大手銀行デクシアの株価が急落しているという、記事も出ていますね。
話を整理しましょう。まず、このコ-ナでも度々説明していますように、銀行のバランスシ-トは左の資産側に債券、株式、貸出があり、右側の負債・資本には預金および自己資本があります。預金は銀行にとって預金者からの借金ですから負債になります。この預金と自分の資金(株式発行で得たものと利益)の合計で資産運用する分けです。ここで、資産運用として購入していた債券の価値が半分に下がったとしましょう。この損はどのように処理されるでしょう。例えば、その損が100であったとしましょう。このままでは左右のバランスが崩れます。そこで、右側の負債・自己資本のところから100を減らす必要があります。しかし、預金は減らすことはできませんね。そこで、自己資本から100を減らすことになります。ここが、問題です。自己資本がたくさんある場合は100減らしてもまったく問題ないでしょう。しかし、自己資本が100しかなければ、100無くなれば、自己資本はゼロになります。これは完全な破産状況です。ゼロにまでいかなくても、自己資本が少なくなれば銀行の経営危機です。そこで、政府が銀行の自己資本を公的資金(税金)で増やそうという分けです。具体的には政府が銀行に株を発行させ、政府が株主になる分けです。銀行の国有化です。わが国でもりそな銀行をこのような形で救済したことがあります。
さて、ヨ-ロッパでなぜこのようなことが起きているのでしょうか。それは君も知っての通りギリシャ国債にデフォルトの危険(ソブリンリスク)が出ています。ヨ-ロッパの銀行はギリシャ国債を大量に保有しています。ギリシャ国債の価格はドンドン下がっており、銀行の左辺の資産は急激に目減りしている分けです。これをそのままにしておけば必ず金融危機が発生し大変なことになります。
このような状況が発生した時にはまず、何をすべきか。銀行の資産価値の目減りは、まず流動性危機を起こします。資金の囲い込みが始まるからです。そこで、中央銀行は思い切った金融緩和をしなければなりません。マネ-を経済に大量に注入することです。それで騒ぎが収まればよいのですが、今のヨ-ロッパのように、銀行の自己資本に問題が出てくると、「支払能力危機」に発展します。この段階では政府の資金注入が必要になる分けです。公的資金導入については、問題もあり、国民の反対が強いのも当然です。しかし、「支払能力危機」の段階までくれば、公的資金導入も止むをえません。
ここしばらくは、ヨ-ロッパ経済から目が離せません。新聞、テレビの報道に注意しておいてください。そして、また質問があればどうぞ。
2011年5月1日
------- 先生、この度の東日本大震災は大変でしたね。でも、この連休中ずっと考えていて一つ分からないことがあるので、質問します。それは、日本経済が震災によって大きな痛手を受けているのに、円が安くならないことです。円安どころか円高が続いています。どうしてですか。
------- 大震災は本当に大変でしたね。私も子供のころ大きな災害に会いました。倒れた家の下になりながらも、私は何とか助かりましたが、多くの人が命を失い、また家や土地を無くし苦しい体験をしました。東北地方の皆さんには心よりお見舞い申し上げます。
さて、君の質問ですが、確かに通貨の価値はその国の経済力と同じ方向に動きます。経済が強くなればその通貨は上昇し、弱くなれば下がります。経済が成長していれば、外国から多くの企業が進出してきますし、外国からの株や債券に対する投資が増えます。それは、自国の通貨をその国の通貨に換えることになり、その国の通貨の需要を増やすことになるからです。通貨の価値も通常の財と同じく、需要と供給の関係で決まります。通貨の取引される市場は外国為替市場です。その市場で円に対する需要が増えれば、円高になり、需要が減れば円安になります。
ところで、1971年まで、1ドル=360円でした。それが、現在は1ドル=80円ほどにまでなっています。それは基本的には日本経済が大きく成長してきたことと大きく関係しています。
今回の君の質問ですが、それなら、今後日本経済が悪くなるのなら、円は下がるはずだ、というものです。確かに円は高止まりしています。それは、円に対する需要が多いからです。海外の投資家も逆に日本の株式への投資を増やしています。ということは、彼らは日本経済は大丈夫であると判断しているからに他なりません。 それから、もう一つ重要な点は日本経済がデフレ状況にあることです。インフレはその国の通貨の価値を下げ、デフレは反対に下げます。極端な例を考えましょう。いま、日本の物価が半分にまで下がったとします。すると、円ではこれまでの倍の商品を買うことができます。アメリカの物価に変化なければ、アメリカの人は日本の物を買うようになるでしょう。日本の商品を買うには円が必要ですから、外国為替市場ではドル売り円買いが起きます。そこで、円はどんどん高くなります。したがって、投機家は日本が今後もデフレが続くと予想すれば、先に円買いドル売りの行動にでるでしょう。これは円高を加速することになります。
このように考えると、今の円高は今後の日本経済のデフレはまだ続くと人びと(投資家)が理解しているから、と言えるでしょう。確かに、日本経済は1995年以降、ずっとデフレを続けています。その意味で言えば、今政府が考えている、復興債の発行も多くの人たちが恐れるようなことはなく、増税よりも日本経済にとってはるかにプラスになると思います。この点については、また連休があけたら教室でディスカッションしましょう。
2011年1月10日
------- 先生、明けましておめでとうございます。卒業生のKです。正月はどうでしたか。僕は例年の通り、稲荷山で元旦を迎えました。寒かったですが、やはり気持ちの良いもので、今年も頑張るぞ、という気になりました。ただ、仕事の方が忙しくて勉強の方はあまりしていません。良い本があれば紹介してください。
------- 元気そうでなにより。稲荷山ですか。そう言えば、君は学生時代から元旦は稲荷山と決めてたね。元気だね。私の方は元旦は出し遅れた年賀状を出しに、歩いて20分ほどの郵便局に行き、その近くの車折神社にお参りしました。小さい神社ですが、結構多くの人がお参りに来られていました。ここは、君も知っている通り、芸能の神様が祭ってあるので、芸能関係のお参りの人も多いようです。
さて、良い本を紹介せよとのことですが、この正月休みに読んだ、ポールソン『回顧録』(日経新聞社、2010年)を紹介しよう。ポールソンとは、2006年からアメリカの財務長官(財務大臣)を勤め、あのリーマンショックを起こした人物として、なにかと話題の多い注目の政治家です。 君も金融論やゼミで勉強したように、バブルとバスト(破裂)は繰り返し起こり、バストは必ず資金の貸手である、金融機関に不良債権をもたらす。金融危機の発生だね。金融危機の初期の段階は「流動性の危機」でそれが「支払い能力危機」に発展し、金融システム全体がおかしくなる。今回の金融危機では金融崩壊とかメルトダウンとか言われたね。それが金融システムを揺らし、資金の流れを止め、経済を悪化させる。 そこで、流動性危機には中央銀行は大量の流動性(現金)を供給し、支払い能力危機には政府が金融機関に公的資本(税金)を注入する、これが金融危機に対する政策当局の正しい対応の仕方です。
すでに、このコーナでも繰り返し説明しているように、今回の金融危機は住宅バブルの崩壊を発端にして起きました。住宅価格は2006年をピークに少しずつ低下し、それに伴いサブプライムローンの返済が滞り始め、サブプライム証券を含んだ金融商品を多く抱えた投資銀行、とくにベアースタンズの経営が悪化し、ここから金融危機が始まります。そこで、その危機に対する最高責任者である、財務長官ポールソンがどのように金融システムの悪化に対応したかが、本書の中心です。彼は基本的に自由主義者であり、安易な政府による救済など全く考えていない。その中で、ベアースタンズ経営悪化の報告が次々来る。さすがに、彼も破綻した場合の状況を十分理解していた。「ベアー・スタンズが破産すれば、同社の株式や社債の保有者が痛手をうけるだけではすまないだろう。ベアーへの融資者、ベアーと株式、債券、モーゲージ、各種証券などを取引する相手は数百、数千にのぼっていた。それらの銀行、証券会社、保険会社、投資信託、ヘッジファンド、各州・都市・大企業の年金基金はみな、みずからも無数の取引相手を抱えていた。ベアーが倒産すれば、取引相手が融資や担保の回収に雪崩を打つことになる」(P.131)。 そこで、NY連銀に依頼して、JPモルガンに特別融資をし、その資金でベアーを吸収するというスキームを考える。連銀は預金銀行への救済義務はあるが、投資銀行は預金を扱っていない。そこで、NY連銀の総裁、ガイトナも政府の損失補償がなければ特別融資に応じることはできないと反発する。しかし、ポールソンの一存で政府の融資保証は決められない。議会の承認が必要となる。しかし、そのような事は時間的にも不可能であり、彼は腹をくくる。「どんなことでもするつもりだ」(P.134)と回答する。この発言を機に連銀の融資は決定する。
ホットしたのも束の間、すぐにリーマンブラザーズの経営悪化が伝わってくる。なんとか、バンカメ(バンク・オブ・アメリカ)に救済を依頼するも、リーマンの資産劣化があまりにもひどく二の足を踏む。そこで、韓国産業銀行やイギリスの銀行、バークレイズに救済を依頼する。ポールソンは昼夜を徹して交渉に奔走する。会議の途中で寝不足と疲れから吐き気をもよおし、トイレに飛び込むこともしばしば。しかし、買収相手はいずれも逃げ、リーマンからは日々大量の資金が流出する。リーマンはベアーの場合のように、連銀の融資を受けることも出来ず、すべてから見放され、CEOファルドの「ハンク、何とかして!!」という悲痛な最後の懇願もむなしく、ついに2008年9月15日午前1時15分に破産申請をする。それと同時に、アメリカの金融機関がすべて危なくなってきた。とくに、アメリカの巨大保険会社AIGの経営悪化が緊急の問題になってきた。もはや、政府が手を拱いているわけにはいかない。ブッシュ大統領も「政治上のダメージなんかどうでも良い」とついに公的資金によるAIGの救済を決める。 これを機に、公的資金の導入を法制化する動きが急加速する。しかし、時は大統領選挙の最中であり、マッケイン、オバマとも税金を使って過激な投資行動をしてきた連中を助けることには安易に賛同できない。むしろ、国民の血税を使って、多額の報酬を得てきた企業を救済などできない、と反対の烽火がアメリカ全土に拡大しようとしていた。しかしながら、政府の必死の説得により、議会もついに10月3日に金融安定化法を成立させた。その後も金融不安は続くものの、基本的にこの法律によってアメリカの金融システムは安定の方向にむかう、ことになる。
金融街で必死に生き、JPモルガンのCEOにまで昇格し、さらにはその実績を買われて、アメリカの財務長官としてアメリカの金融危機に全力で対処する、まさに人間離れした超人ポールソンも、奥さんに、「もっと早く帰宅して子供の世話をして」と言われ、早く帰宅することを心がけたという下りは思わず笑ってしまうね。それに、とても敬虔なクリスチャンであるね。あまりの疲れと神経の高ぶりから、思わず睡眠薬に手を出そうとするが、トイレに流し、神に祈る。ここを読んで、前にアメリカ人の友人からもらったXmasカードにスキーで転んで骨折して、医者に痛み止めの注射をされそうになって大変だった、と書いてあったが、確かに彼女も敬虔なクリスチャンでした。その意味がこれを読んでやっと分かりました。
さて、君も銀行で働く身、この本はなかなか現実的で面白いと思うよ。実はこの本昨年に原書で大まかには読んでいたのですが、日本語訳がとても素晴らしく内容が原書より豊かになったと思えるくらいです。ただし、原書の方はアマゾンで1300円程度で手に入り、日本語訳より遥かに安価です。では、今年も元気で頑張ってください。また、メールをください。
2010年12月5日
――― 先生、昨日京都リサーチパークで開催された、内閣府の講演に行ってきました。そこで、後半のシンポジュームで先生の話された内容をもう一度教えてもらえますか。
――― 来てくれましたか。土曜日はバイトがあると言ってたから無理かと思ってましたが、それは良かったです。
さて、私の発言に興味を持ってくれたようですが、これはゼミや金融論で話していることと基本的には同じです。結論を言えば、1992年以降、日本経済が低成長に陥ったのは、供給サイドの要因によるのではなく、日銀の過度の金融引締めとそれに続く不適切な金融政策が急激かつ長引く資産デフレとデフレをもたらし、それが民間内需を大幅に減少させた、ということです。日本経済全体で見ますと、経済が生み出す供給量に対して現実の需要量は30兆円から35兆円も不足しているというのが現状です。つまり、日本経済は需要が大きく減少しているのです。ですから、景気が悪いのは日本経済の生産力が落ち込んでいるからと、考えるのは正しくないのです。もちろん、長い目で見れば、技術開発、国際化へ対応、少子化対策などの構造面での改革は非常に重要です。
小泉政権のキャッチフレーズであった、「構造改革なくして経済成長なし」は、長い目でみた場合には重要であっても、今の日本経済では構造改革は供給を増やし、さらに需要と供給のギャップを拡大させる危険があります。 では、供給に追いつくように需要を増やすにはどうすれば良いのでしょうか。
それは、財政政策と金融政策です(もちろん構造改革にも需要を創出するものもあります)。需要拡大政策によって景気が回復した段階で、供給能力拡大型の構造改革を本格的に進めることが重要です。
まず、財政政策ですが、この効果には限界があることは多くの経済学者によって指摘されています。これは財政学の講義で習ったと思うのですが、例えば、亀岡に1億円の道路整備のための政府支出が行なわれたとしましょう。まず1億円の投資は関係者の1億円の所得増加となり、その所得から消費がなされます。亀岡市民の所得増加に対する消費支出の割合(限界消費性向)が80%であるとすれば、0.8億円の所得が新たに発生します。新たに所得が増えた人がさらにその内の80%を消費にまわすと所得は0.8×0.8=0.64億円の所得が新たに生まれます。このように所得は連鎖的に増加していき、最終的には5億円の所得が生まれます。つまり、公共投資の5倍の所得が発生し、これが公共投資の乗数効果です。しかし、これはあくまでも頭の中での計算です。人びとが投資に対応して80%の消費を増やすことが大前提です。実はここが問題なのです。現実の公共投資の乗数効果は下がっている、と言われています。その理由としては3つ上げることができます。①公共投資によって所得が増えても人びとはそれを一時的でしかないと考える。② 政府の財政状況を見れば、将来は増税だと考え、人びとは消費を抑え将来に備えようとする(貯蓄が増える)。③国債発行が増えると、国債価格が低下し、その反対である国債金利は上昇します。長期の金利が上がれば、設備投資や住宅投資も減ります。さらに金利の上昇は円高をもたらす可能性があります。円高は輸出を減らし、輸入を増やすので、総需要を減少させ、財政支出を相殺します。 このように考えますと、財政政策にはあまり期待できそうにありません。
これに対して、金融政策にも限界があるという人も多いです。日本銀行もいつもそのように主張しています。たしかに、金利はいったんゼロになれば、それ以下に下げることは不可能です。また、景気が悪い時には、中央銀行がいくらお金を増やしたとしても、人びとはそれを抱え込んで支出しないと言われてきました。マクロ経済学や金融論の本に書いてある流動性のワナが生じるからです。ですから、金融政策はインフレに強いが、デフレに無力と信じる人が多いが実情です。
しかし、本当にそうでしょうか。ゼミで勉強している、大恐慌からの回復を思い出してください。金本位制を廃止してリフレ政策を実施した国が大恐慌からの脱出に成功しました。日本は31年に離脱したためにその被害は少なく、またいつまでも金本位制に固執したフランスが回復にもっとも長い時間を要しました。
金融政策には流動性のワナが存在するとは思いません。私はその存在を否定することを科学的に証明しようとしています。まだ、多くの人を納得さしうる証明はできていませんが、来年もこの問題に取り組みます。そして、金融政策がいかに重要であるかを主張していきたいと思っています。 これで、回答になりましたか。また分からなければいつでも質問にきてください。
(2010年9月10日)
------- 先生、帰って来られましたか。今夏のフィンランドはどうでしたか。日本は円高で株価が下がるし大変です。これから、どうなるのでしょうか。
------- 君も元気そうで何よりです。今年のフィンランドは7月に35度という異常な猛暑で大変だったようです。私の行った8月からは今度は異常に気温が下がり、8月半ばで10度を切りました。油断して軽装備でしたので、急遽スーパで冬物のジャンバーを買い求めました。
さて、円高ですが、フィンランドでも大きな話題になっていました。これは私の研究テーマでもあり、今回私のセミナーの中心課題でした。いつも、君たちに言っているように、日本はずっとデフレです。デフレには思い切った金融緩和が必要なのです。それが基本です。しかし、その政策の中心機関である日本銀行は常にデフレに対して甘い政策をとってきました。2006年に早くも量的緩和政策を止め、金利を上げたのもその一例です。リーマンショック後の日銀の姿勢もやはり後ろ向きでした。これに対してアメリカの対応は実に素早かったです。なにしろ、君たちもよく知っている大恐慌の専門家である、あのベン・バーナンキが連銀の議長ですから、大幅な流動性(現金)の供給を実施しています。日銀がすでに金利はゼロ近傍にあり、これ以上の金融緩和はあり得ない、と言っているのとは大違いです。
私の今回のセミナー発表の中心は、経済全体に不安要因がある時には、人びとは常に現金を囲い込もうとするので、その分を差し引いて考えないといけないというものです。たとえば、中央銀行が100の現金を供給しても80も抱えこまれると、残りの現金は20しかありません。これでは、経済は活性化しません。もう100供給すれば、経済にまわる現金は120に膨らみます。それで景気が良くなります。さらに、景気がよくなれば、現金を抱えていた人も安心してその現金を手放します。経済にまわるお金が増えるから、経済活動は活発になります。その状況を見極めた上で、余った現金を日銀は回収すれば良いのです。もちろん、その回収を早まってはいけません。大恐慌時の1937年に連銀が景気は十分回復したとして、現金の回収を早まって、再びアメリカを不況に陥れたことは、ゼミで勉強しましたね。あのような失敗は教訓にしなければいけません。 今後この円高はどうなるかですが、日銀が今のような後ろ向きの政策を取っている限り続くと思います。バーナンキのように、「金利はゼロだが、中央銀行としてはまだまだやることが多くある」と国民に向けて、中央銀行の断固たる決意を発信することが重要だと思います。
フィンランドやスウェーデンも日本と同じように1990年ごろに金融危機を経験したのです。その危機たるや日本の不況を遥かに凌駕するものでした。しかし、その回復は実に早かった。それは金融の大幅緩和とその金融緩和を助けるべく、政府が税金を使って積極的に金融機関の援助をしたからです。あの不況は国家存亡の危機と国民は捉え、公的資金導入に大きな反論はありませんでした。危機に際しては、中央銀行の思い切った金融緩和と政府の強力なバックが必要であるというのが、90年の北欧金融危機の教訓です。このことは、今回のフィンランド滞在で現地の経済学者にも確認しました。 フィンランドの人は基本的に日本人に比べておとなしく、誠実かつあまり自己主張しません。しかし、いったん事があると大変大きな団結力を発揮するようです。これは、大国ロシアからつねに大きな圧力を受け、また厳しい冬の自然と闘ってきたからかもしれません。現在失業率は8.8%で高いように見えますが、女性の労働人口(24-54歳)の85%が就業している現状をみれば、それ程大きいとは思いません。森と湖に囲まれて、静かに、緩やかに流れる時間の中で人びとは豊かな生活を送っているように思います。 さて、来週からはいよいよ秋学期が始まります。頑張っていきましょう。これからも、日ごろ、疑問に思っていることはドンドン私にぶつけてください。
(2010年3月9日)
―――― 先生、この三月で父親が定年退職し、退職金をどのように運用しようかと、証券会社に相談したら新興国関連の投資信託が良いと言われたそうです。どうしてでしょうか。
―――― お父さんが定年ですか。長らく勤められて、その報酬としてのとても大切な退職金ですからその運用は慎重でなければいけませんね。確かに今新興国の経済は好調です。そこで、証券会社も薦めるのでしょう。
まず、その前に世界経済の現状をみてみましょう。君も良く知っているように、2年前の9月のリーマンブラーザーズの破綻により、世界は100年に一度という大不況に陥りました。このコーナでも何度も触れてきましたが、アメリカでは2000年代初めのITバブル崩壊後の金融緩和により、住宅バブルが生じ、その後バブル崩壊し、それがリーマンブラーザーズの崩壊に繋がるわけです。この不況によって、企業も家計も資産の目減りによる、バランスシート調整に入りました。分かりやすく言うと、企業は資産の減少、売上げの低下によって、借金して新しい機械を買ったり、工場設備を拡張するという、投資を増やす元気がありません。家計も給料は下がるし、住宅ローンなどは重荷になるしで、とても消費を拡大する余裕はありません。したがって、消費も投資も増加しません。銀行も不良債権に苦しみ、安易に貸出しをしなくなりました。これが先進国の現状です。
リーマンショック後、世界の金融機関は互いに疑心暗鬼に陥り、現金を確保するという行動に出ました。それは、リーマンブラザーズのような大きな金融機関は政府が後押ししてくれるから、絶対に破綻することはない、と信じられていたからです。この信頼が失われたから金融機関はとにかく現金を保有しようとしたのです。その結果、世界中で現金不足になりました。よく新聞などで言われた「流動性危機」の発生です。この段階では、先進国から資金を受けていた、新興国も大きな痛手を受けました。しかし、先進国の中央銀行は、このような状況に対して、大規模な現金供給を実行しました。また、金融機関には公的資金の導入もおこないました。その結果、世界経済は少しずつですが、回復傾向にあります。少しずつというのは、まだ先進各国は上述しましたバランスシート調整を進めている段階にあるからです。デフレ傾向も収まっていません。 これに対して、新興国はもともとバブル崩壊の後遺症はありませんし、その意味ではバランスシート調整はありません。他方、生活水準は上昇傾向にあり、消費意欲は高まっています。また、今後道路、港湾、といった社会資本の充実も期待されています。さらに、もっと重要なのは、先進国で行なわれている、大幅な金融緩和によって、現金は溢れていることです。この潤沢な資金、とくにドルが新興国に流れ込んでいます。これは、ドルキャリ・トレードと言われています。この資金流入が新興国の成長力を支えています。
このような状況から、お父さんは証券会社で新興国関連の投資信託を薦められたのでしょう。しかし、今後も、このような楽観的な状況が新興国で持続するとは限りません。もし、世界が再び不況に陥ることになれば、投資された資金は引き揚げられ新興国の経済は大きなダメージを受けるでしょう。もちろん、新興国の高い潜在成長力を考えれば、このような状況が長きにわたって続く可能性も高いでしょう。いずれにしても、本学のファナンスコースで学習しているように、リスクとリターンは表裏一体であることを忘れず、リスクをとる場合には最悪の場合も想定しておくことが重要です。この退職金がどのような性格のものか、老後の貴重な生活資金なのか、それともかなり余裕のある資金なのか、ということです。また、私がいつも言ってますように、「バブルと崩壊は常に繰り返す」ことも忘れてはなりません。このように、お父さんにアドバイスして上げればどうでしょうか。後はお父さんがご自分で判断なされるでしょう。
(2010年2月14日)
―――― 先生、仕送りがあったので、河原町のジュンク堂で新書2冊、買って試験中に読みました。岩田『日本銀行は信用できるか』、脇田『ナビゲート日本経済』の2冊です。試験中になると本を読みたくなるのです。岩田氏は景気がいっこうに良くならないのは日本銀行がしっかり金融緩和しないから、と主張し、脇田氏は金融政策で不況を克服するのは無理だと、主張しています。どちらが正しいのですか、混乱してしまいます。先生、教えてください。僕は本が好きなので、できれば本屋に就職できればと思っています。
―――― メール有難う。本屋に就職ですか。良いですね。大学の図書館に出入りしているジュンク堂の社員さんは、2年前に卒業した君たちの先輩です。見かけたら一度話しをきくと良いですよ。気さくな人ですから、親身になって相談に乗ってくれると思います。
さて君の質問ですが、両氏とも日本経済の核心について大変分かりやすく述べる著者として、定評のある方です。実は2冊ともまだ読んでいないので、確かな回答はできませんが、これまでの両氏の著作を通じて何を述べておられのかは推測できます。 岩田氏は日本銀行はいつも言い分けばかりして、思い切った金融緩和をしていないと、痛烈な日銀批判を繰返しているエコノミストで、とくにインフレターゲット政策を提案しています。脇田氏は金融政策の有効性に批判的です。つまり、不況期には金融政策は効かないから、日銀批判は的を得ていないという立場です。 このお2人の意見は現代の金融政策に関する代表的見方と考えて良いでしょう。私の意見はゼミの時間でも言ってますように、金融政策はなお有効であるという考えです。岩田氏とは若干異なる所もありますが、基本的には同氏と同じ立場です。
金融政策無効論者の考えは、不況期にはいくらマネーを増加させてもそれは経済に反映されない、増加されたマネーはすべて保蔵されてしまうと言うわけです。したがって、マネーが2倍になれば物価も2倍に跳ね上がることはありえない、貨幣数量説の考え方は景気の良い時しか当てはまらない、ということになるわけです。日本銀行も、マネー、実質GDP、物価の関係は1990年代末以降崩れてしまった、という統計的研究結果を報告しています。 これに対して私たちはこの関係を崩したのは、経済不安が極度に大きくなったからだという仮説を立てて、不安という心理的要因を定量化して、この3変数に付加して、統計的分析を施しました。すると、見事にマネー、実質GDP、物価の関係が成立っていりことが証明できました。つまり、1997、98、2003年のように金融不安が大きくなると人びとは一時的にマネーを保蔵するので、これらの関係は崩壊したかに見えますが、実際には関係は成立しているのです。したがって、金融不安が大きくなった時には、マネーは保蔵され、金融市場では流動性不足になるので、その保蔵分を補う形でマネーを一層増やす努力が日銀には求められるのです。 もちろん、そのような状況の下では日銀が通常の形で金融緩和を実施しても、金融機関に資金が滞留してマネーストックの増加にはなりません。したがって、マネーの増加を促すためには、日銀が直接、株式や国債を買取る政策も重要だと思います。また、金融機関のバランスシートが不良債権で毀損して、貸出しができない場合には政府の金融機関への援助も重要となります。とくに、後者の政府の役割という点で参考になるのは、北欧の90年代の金融危機です。日本では政府の対応はいつも後手になりますが、北欧で90年代初めに金融危機が起きた時には、政府は金融機関、預金は100%政府が保証すると宣言し、国民の不安を抑え、危機から速やかな脱出に成功しました。 この点はまた、4月からのゼミの時間で議論しましょう。
君のように書店に行き、実際にどのような本が出ているのか自分の目で確かめるのは大変えらいと思います。新書は値段が手ごろで学生には有難いね。私も貧乏学生の頃、本屋に行ってなけなしの金で本をよく買ったことを思い出しました。頑張ってください。
(2009年12月15日)
――― 先生、昨日の夕刊見ましたか。サムエルソンが亡くなりましたね。先生が前にフリードマンと並ぶ、20世紀を代表する偉大な経済学者であると教えてくれましたね。
――― 有難う。私も夕刊で知り、驚きました。でも大分お年ですからね。フリードマンが亡くなり、サムエルソンも、となると本当に残念です。まさに、「巨星墜つ」という感じがします。フリードマンが亡くなった翌日も朝刊が休刊日でその日の夕刊で知りました。まさに偶然ですね。
私が初めてサムエルソンと接したのは、大学の4年生のときに彼の『経済学』を読んだ時です。当時、大学は学園紛争の真っ只中で、講義は一切なく、毎日大学構内に入ることすら許されませんでした。今から思えば、授業料のみ納めて、授業はない、と言うのは実におかしい話です。そこで、私は友人のN君とサムエルソンの『経済学』を一緒に読むことにしました。各章の終わりに、練習問題があり、それを解きあいました。7月になり、彼は郷里に帰ったので、それからは手紙で解答を交換しました。お互いに良い解答を書かねばと一生懸命読みました。大学で一番勉強した時期でした。良い友人に出会えた事を今も感謝しています。ぜひ、君もそのような友人を見つけてください。
さて、この本で一番印象深かったのは、もう、君たちはマクロの講義で修得済みと思いますが、「節約のバラドックス」です。貯蓄を増やせば逆に所得が減り、貯蓄が減ると言う話です。もう一つは「資本(投資)の限界効率」です。ここで、現在価値に割り引くという考えを初めてしりました。また、「流動性のワナ」というのも新しい感動でした。いわゆる、ケインズの経済学を易しく紹介してくれているのです。この本は次々と改訂され、今も本屋に並んでいます。しかし、時代と共にその内容は変化しています。例えば、最初に読んだ『経済学』には、物価は一定であるのは望ましいように思われるが、そうではなくて、毎年数パーセントで上昇するのが良い、と断言していました。しかし、その文章は最近の版では見つけることはできません。おそらく、その後の世界的高インフレの中でこの文章を抹消したのでしょう。また、「流動性のワナ」についてもほとんど十分な説明がなされなくなりました。今日の世界的デフレを考えると、これらの考えは大変重要であり、復活が求められます。
つぎに、彼の『経済分析の基礎』を読みました。学生にとっては、かなり高価な本でした。基礎という言葉に魅かれて読みましたが当時の私には歯が立ちませんでした。これはサムエルソンの博士論文をまとめたもので、Foundationというのは、日本語の基礎とニュウアンスとはかなり異なります。むしろ、『経済分析のフロンティア』という題名に訳すべきであったと思います。でも、静学と動学を結ぶ、「対応原理」という考えを知ったのは収穫でした。ただ、この本ですっかり自信を無くしたのも事実です。
サムエルソンに直接会ったことがあります。それは、大学で職を得た後のことです。85年夏にMIT(マサチューセッツ工科大学)に短期滞在していた時です。かれはすでに大学を退官していましたが、たまたま、大学に来ており、秘書がサムエルソンが来ていると知らせてくれました。行くと、蝶ネクタイの老紳士が椅子に腰かけていました。そっと近づくとこちらを見ながら優しく微笑んでくれました。私は舞い上がってしまい、何を話したかは全く覚えていませんが、握手を交わしたことだけはしっかり覚えています。当時すでにMITにはブランシャード、スタンレイ・フィッシャーなど経済学の錚々たる人材が揃っていましたが、これもサムエルソンの貢献だと思います。
彼はフリードマンとほぼ同時期にシカゴ大学に学生として過ごしています。彼がケインジアンになったのは、彼がシカゴを出て、ハーバード大学にいた時、そこでたまたまケンブリッジでケインズの講義を受けたばかりの、ブライスという大学院生からケインズの話を聞いてそれに感動し、出版されたばかりの『一般理論』を読む機会を持ったからではないかと、思います。もし、彼がブライスに出会わなかったなら、彼の考えはもっと違っていたのでは、と思います。これはあくまでも私の推論ですが、若い時期に得たインパクト言うのはその後の人生に大きく影響するのではないでしょうか。
その後、サムエルソンとフリードマンは互いに論敵として、共に成長していきます。そのことはまた、ゼミの時間に説明していきます。頑張ってください。
(2009年7月14日)
------- 先生、いま、卒論頑張っているのですが、日本の金本位制復帰で行き詰まっています。当時の政府は金解禁の前提として、なぜ、国民の不評を買う緊縮財政を採らざるをえなかったのでしょう。
------- 浜口雄幸総理大臣と井上準之助大蔵大臣はそれこそ命をかけて金本位復帰をめざし、1930年1月にその実現を果たします。これは、城山三郎『男子の本懐』で読みましたよね。彼らは政治のために命を賭したまさに英雄として描かれていましたね。なぜ、金本位制に復帰したかは、金本位制をとることが、当時の先進国の条件だったのです。金本位制をとっていない国はまともに相手にしてもらえない。海外から借金をすることは到底できません。事実、当時日本はイギリスから大変な借金をしていました。
そこで、君の質問ですが、金本位制というのは、金と貨幣が一定の比率で兌換できるということです。もし、財政が放漫であれば、国債が大量に発行され、それを日本銀行が引き受けることになれば、大量の貨幣増加が生じることになります。準備として保有されている金と貨幣のバランスが崩れます。すると金儲けに敏い投資家は、やがて日本は金と貨幣の兌換比率を維持できなくなるであろう、と考え、金と円紙幣の交換を求めます。金本位制とは金と紙幣が交換可能ということですから、海外への金流出が起き、金準備はすぐ無くなります。ですから、金本位に復帰するには、健全財政が必要条件になります。とくに、日本は当時の実力よりも高い円レート(第一世界大戦以前の旧平価)で復帰しようとしていたから、なおさら厳しい緊縮財政をとらざるをえなかったのです。
フーバー大統領も1932年の不況の最中に増税をして、大恐慌をさらに悪化させたことは勉強しましたよね。当時のフーバーの頭の中にはアメリカから金流出するという恐怖があったからです。
いずれにしましても、金本位制というのは大きな不況を起こしやすい制度であることは覚えておくべきでしょう。
今週の土曜日、キャンパスプラザ京都で「フリードマンと大恐慌」ということで講演をします。また、来週水曜日には園部でも金融危機について話します。時間があれば、ぜひ、聞きにきてください。
(2009年3月10日)
--------- 先生、株がまた落ちましたね。7086円でバブル後最安値ですよ。僕の就職どうなるんです。ところで、来月2日のロンドンで、緊急首脳会合(金融サミット)が開催され、世界金融危機について話し合われるようですが、そこでは、銀行の自己資本規制の見直しが重要課題のようですが、その見直しって何です。
----------確かに心配だね。しかし、いつの時代でも真面目に頑張っている学生は企業も見逃しません。日々精進を怠らなことが大事だね。ところで、君の質問は自己資本規制の見直しについてだね。自己資本というのは、君も良く知っている通り、銀行の自己資本を資産で割った比率です。銀行は預金を集めてそれを貸出したり、証券を購入したりして、利益を上げているわけです。ですから、預金は銀行にとって負債であり、貸付や証券は資産になります。資産-負債=自己資本、と言う関係です。銀行が資産運用に失敗すれば、例えば貸出した資金が回収できない、つまり不良債権になった場合には、自己資本が減少します。資産=100、負債=80、自己資本=20、とすると、自己資本比率は20%です(20÷100)。いま、不良債権の発生で、資産が90に目減りしたら、それは自己資本の取崩しでしかまかなえません。つまり、自己資本=10となります。だって、負債は預金者から預かった大事な預金ですから、それを70に減らすわけにはいきません。この場合、自己資本比率は11%(10÷90)に低下します。だから、自己資本比率というのは、銀行の健全性を示す、重要な客観的指標なのです。通常8%が最低ラインとなります。ここまでは、私の金融論の講義でも説明しています。
さて、君の質問は何故、今度のサミットで問題になるのかですね。この自己資本比率にはいろいろ問題もあるんだ。一つは資産の価格を現在の価格(時価会計)で計算することです。景気の良いときには、資産価格は上昇します。たとえば、先の例では100から110に上昇します。したがって、自己資本は110-80=30となり、自己資本比率も20%から27%(30÷110=0.27)に上昇します。そこで、銀行は安心して預金の受入れを増やしたり、借入を増やして、貸出しや証券投資を増やします。その結果、さらに資産価格が上昇するというバブルのスパイラルが発生します。逆に、今回の金融危機のように、資産価格が下落すると、逆のデフレスパイラルが発生します。自分で上の例で確認してください。(また、ここでは詳細は省きますが、同じ貸出しでも企業の信用度によって資産計算が異なります。バブル期には企業の信用度が増し、リスク度が低下し、デフレ期には企業の信用度が低下し、リスク度が上昇します。これも自己資本比率を景気を煽る方向に変化させます。)ですから、平時にも非常時にも一律に8%の規制を銀行に強制するのは問題だというのです。バブル期には規制すべき自己資本比率の水準を上げ、デフレ期には下げる、というのも一つの案です。そして、資産を時価で計算することにも問題があります。資産の投売りが行われている状況での時価は極端に低くなります。それが適正な価格であるのか大いに問題があります。しかし、時価評価を単純に廃止することも金融機関の財務内容の公明性、デスクロージャーという観点から問題があります。
また、自己資本比率の規制が適用されるのは銀行だけであって、今回の金融危機の元凶になっている投資銀行やヘッジファンドには課せられない、ことも大きな問題です。投資銀行らは自己資本比率が課せられていなことを幸いに、自己資本を極力少なくしてそれを投資に回していたのです。ちなみに、自己資本比率の逆数(資産÷自己資本)はレバレッジ比率と言います。レバレッジというのは梃子(テコ)、という意味ですから、少ない力(資金)で大きな仕事(資産投資)をすることです。投資銀行は非常にレバレッジの高い資産運用をしていたのです。レバレッジが高ければ、資産価格が値上がりした時の儲けはすごいものです。逆に値下がりした時の損はその反対です。今回はまさにこれが起きたのです。これについては、自分で数値例を上げて説明してください。練習問題にしておきます。わからない時は研究室に来てください。では、来月のサミットでどのような話合いがなされるのか注目しましょう。おっとと、これも質問が来そうなので忘れないうちに。この金融サミットの開催に先駆けて、準備会として、G20が13-14日にロンドン近郊で開催されます。このG20というのは、Group of 20の略で、そのメンバーはG7(日本、米国、英国、フランス、ドイツ、カナダ、イタリア、カナダ)とBrics(ブラジル、ロシア、インド、中国)、新興国(韓国、アルゼンチン、オ-ストラリア、インドネシア、メキシコ、南アフリカ、トルコ、サウジアラビア)の19カ国に欧州連合(EU)を加えた、20カ国、地域です。
(2009年2月11日)
--------- 先生、「学内合同企業説明会」、3日連続行ってきました。合計18社まわりましたが、疲れました。なかなか厳しいですね。さて、質問です。昨日アメリカ政府は金融安定化法案を示し、その中心が「バッドバンク」の設立にある、とニュ-スで報道されましたが、それって何です。
--------- 3日間にわたる「学内合同企業説明会」出席、緊張で疲れたでしょう。私も気になったので、会場の体育館をそっと覗きに行きましたが、みな、真剣な表情で臨んでいるので、安心しました。さて、バッドバンクですが、これは不良債権に苦しむ銀行から不良債権を買取る銀行のことです。これを国民の税金で新たに設立しようというものです。不良債権を切り離した銀行はグッドバンクになり、振り出しに戻って新たな融資を実施し、資金の流れを促進することができる、という考えに基づくものです。君たちにいつも教えているように、おカネの流れをつまらせないようにすることが、金融危機が生じたときに一番重要な政策なのです。フィンランドやスウェ-デンでも90年代の金融危機時にはバッドバンクを設立し、不良債権を買取り、金融機関を再生させました。そして、景気回復に伴い、その不良債権を売却し、半分以上を取り戻したと言われています。もちろん、不良債権処理に対してあまりにも企業に厳しかったとか、銀行にモラルハザ-ドを起こしたとか、いまでもバッドバンクを巡る議論は続いています。でも、繰返しになりますが、金融危機ではまず、おカネの流れ(具体的には銀行の貸出し)をできるだけスム-スにすることが大切です。就職活動、引続き頑張って。
(2009年1月16日)
-------- 先生、今週の「エコノミスト」(1月20日号)に大恐慌理解のための必読書5冊が紹介されてますね。それぞれどのような本ですか。いま、大恐慌に大変関心をもっています。
-------- エコノミストを読んでいるとは感心です。君も4月からいよいよ4回生だからね。私もこの記事は見ました。紹介されていたのは次ぎの5冊だね。1.ガルブレイス『大暴落1929』、2.アレン『オンリー・イエスタデイ』、3.林『大恐慌のアメリカ』、4.秋元『世界大恐慌』、5.パーカー『大恐慌を見た経済学者11人はどう生きたか』。それぞれ説明しましょう。1はかなり昔に翻訳されており、今回新たな訳者で再出版されたものです。昔のものに比べて思い切って簡潔に訳されており、大変読みやすくなっています。例えば、連邦準備理事会は現在のシステムとは異なり、その差異を出すために連邦準備委員会、あるいは連邦準備理事局と訳すのが専門家の間では定石ですが、あえて理事会と訳しています。たしかに、その方が読者にはピーンときますね。思い切って簡潔に訳されています。内容もアカデミックではなく大恐慌の様子がよくわかります。大恐慌における株価暴落の影響を強調しているのが本書の特徴です。2.は1931年に著され、アメリカで大ベストセラーになった本です。大恐慌以前のアメリカの社会状況と株価暴落の様子が実に克明に描写されています。大恐慌の専門論文にもよく引用されます。ただ、本書は現在絶版になっており、手に入れにくくなっています。3,4は日本の大学の先生によって書かれたもので,大恐慌の前後の事情も正確に説明されている良書です。とくに、3は昔、君たちの先輩が学生だったころにゼミのテキストとして3-4年使ったことがあります。その後絶版になっていたのですが、最近再版されたようです。5は数年前にゼミの君たちの先輩と一部原書で読んだ本です。著名な経済学者の大恐慌実体験を知ることができます。もちろん、大恐慌に関する文献はこれだけではありません。私は個人的には、ホールとファーグソン『大恐慌』(多賀出版)が気に入っています。同書は最新の研究成果を含みながら大変分かりやすく大恐慌を説明しています。4月からはいよいよ卒論執筆だね。卒論は大恐慌で書きますか。4月に改めて卒論の相談をしましょう。
(2008年10月14日)
------ 先生、今春卒業した、Uです。仕事の方は、日々新しいことを覚えながら一生懸命頑張っています。資格試験の勉強もありなかなか忙しい日々が続いています。それにしてもすごい株価下落ですね。今後政府、日銀はどういった政策をとっていくのでしょうか。日常の業務でも円高から外貨両替が多く、仕事上でも今後の動きが気になるところなので是非教えていただきたいと思います。よろしくお願いします。
------ メ-ル有難う。元気で頑張っているようで、なによりです。株価下落は凄いね。この7日間で3000円も下落とは。この連休中私の所にも、友人、知人、親戚から問い合わせが来ています。中には悲鳴に近いものもあります。君も知っての通り、これは間接金融から直接金融への時代の流れの中で起きた非常に厳しい経済事件です。大恐慌になるという評論家もいます(評論家というのはいつの時代でも事件を誇大にし、自分の存在をアピ-ルしなければならない、という宿命を持っています)。しかし、これは間違っています。大恐慌が起きたのは、まず第一に、国内で銀行が破綻し、金融システムの崩壊が進行しているのに、政府および連銀がまったく何もしなかった、むしろ逆の政策を行なったこと、第二にリ-ダシップをとる国がなく、すべての国が自国本位の政策に走った、具体的には金の流出を抑えようとした、ことによります。しかし、今は違います、ヨ-ロッパ、日本、アメリカが協調して政策を進めています。また、強力な金融緩和、公的資金導入の重要性も十分認識しています。そして、これらの政策は実施されつつあります。動揺せず、落着いてください。
それにしても、今回のリ-マンの破綻、公的資金導入の下院での否決は予想外でした。この2つが今回の株価大暴落の原因であることには間違いありません。しかし、いつも政府が助けてくれる、とすべての人が考えてしまうとこれまた大きい問題です。モラルハザ-ドを助長します。私が君たちにいつもやっていたように、こんな卒論では単位認定しないぞ、卒業させないぞ、と脅しながらも最後には単位を与えてしまう(いわゆる「時間的非整合性」)。このやり方が大変重要だと思います。市場に活を入れたという意味では今回の予想外のやり方も良かったのかもしれません。もっとも少し効きすぎたようですが。30年代の大恐慌は結果的に大きな政府を作ってしまいました。そして、その弊害が大きくなり、70年代にはフリ-ドマン、マネタリストたちの主張が強く聞き入れられるようになったことは君も講義で学んだとおりです。今回の事件を通じて世界は好むと好まざるとに拘わらず、大きな政府を作っていくことになりそうです。
今回の株価暴落で明らかになったのは、株式というのは非常にリスクの高い金融商品であることです。本学のファイナンスコ-スではまず最初に、その点を強調しています。にも拘わらず、退職金など老後の生活に非常に大切な資金を全額株式投資に回した人などがかなりいるということです。君も銀行でこれから投資信託を中心とした金融商品を販売していくことになると思いますが、高齢者に対してはリスクについて親身になって説明してあげてください。それでは、頑張って立派な模範となる銀行員になってください。同窓会での再会楽しみにしています。
(2008年7月25日)
------------ 先生、アメリカの住宅公社が破綻しそうで、それが破綻すると日本の金融機関にも大きな影響が出るって、ニュ-スで騒いでましたが、えらいことになるんですか。
----------- 住宅公社とはあの大恐慌の後、ニュ-ディ-ル政策の一環として1938年に設立されたファニ-メイと1970年に設立されたフレディマックのことです。両機関ともアメリカ政府が国民の持ち家促進政策のために設立したもので、民間金融機関、ブロ-カから住宅債権を買取り、それを基に住宅ロ-ン担保証券(Mortgage Backed Security: MBS)を発行し、投資家に売却あるいは自分で保有しています。この機関のおかげで住宅ロ-ンは大いに促進されました。ロ-ンの証券化というものです。これは先の質問(2008年1月22日)で答えましたね。両機関はアメリカでは政府支援機関(Government Sponsored Enterprises: GSE)と呼ばれています。しかし、実際は民間上場企業です。これまで、政府系だから安心だとして、ファニーメイやフレディマックが保証、発行する住宅ローン担保債券(MBS)市場は落着いていましたが、最近になって両機関の株価が急落し、アメリカ金融システムに大きな衝撃を与えています。サブプライムロ-ン問題が長期化する中で両機関が主として扱う通常の住宅ロ-ン(プライムロ-ン)の延滞率も増加し、それが業績悪化を促しているようです。3月末の自己資本比率をみるとファニ-メイで1.4%、フレディマックにいたっては52億ドルの債務超過です(日経新聞7月23日)。また、両機関の保証、発行するMBSは5兆2千億ドルにもなり、そのうち、1兆5千億ドルが海外の金融機関、投資家によって保有されていると言われています。ちなみに、わが国の金融機関では、農林中央金融公庫が5兆5000億円、三菱UFJが3兆3000億円、みずほが1兆2000億円、三井住友が2198億円、それぞれ保有しています。もし、両機関にもしものことがあれば確かに大変です。まさに、アメリカ発大恐慌の再来となるでしょう。だから、君の聞いたニュ-スではアナウンサが興奮気味に報道したのでしょう。 しかし、私はそうは思いません。大丈夫、安心して勉強に励んでください。アメリカという国は実に危機管理に長けた国です。大恐慌および日本の長期不況についても実に謙虚に学習しています。やる時には思い切ってやります。その証拠に本年3月のベアー・スターンズの経営破綻にさいしては政府、中央銀行が協力して大量の流動性注入を実に早いタイミングで実施しました。証券会社に対してですよ。わが国では公的資金導入が非常に遅れ97、98年の金融危機後にやっと実施されたのとは対称的です(ちなみに90年代初期の北欧の金融危機でも素早い公的資金注入が実施され成功しています)。今回の両機関に対しても積極的な救済策が講じられることは確実と思います。それよりも心配なのはわが国の政策です。消費者物価の一時的な上昇で日銀があわてて金融引締めに走ることです。白川総裁にはゆめゆめそのような失敗をなさらないようお願いしたいですね。
(2008年7月7日)
---------- 先生、原油価格の値上がりはすごいですね。いよいよインフレの到来と考えてよいですか。先生はいつもこの不況を脱却するには物価が上昇しなければならない、と教えてくれていますね。このインフレは大歓迎ですね。
---------- おっとと、ちょっと待ってください。原油価格の上昇は必ずインフレになるとは限りません。また、インフレは歓迎などと君たちに教えたことは一度もありません。誤解しないでください。まず、原油価格の高騰は必ずしもインフレにはならない、ということです。1973年10月に中東で戦争が起こり、原油が急激に高騰したことがあります(第一次オイルショック)。その結果、狂乱物価といわれた程物価は急上昇しました。ピーク時には卸売り物価で35.5%、消費者物価で22.7%にも達しました。私は当時貧乏学生でしたから、このインフレには相当まいりました。下宿代は上がる、生協のランチ代は上がる、風呂代は上がる、一方奨学金は上がらない、と大変でした。だから、インフレもまた歓迎すべきものではないのです。さて、この時のインフレですが、それは単に原油価格が高騰したからではないのです。日本銀行は原油価格高騰が経済に与えるマイナス影響を考慮して、大幅に金融を緩和したからなのです。マネ-サプライは30%近くも増加させたのです。マネ-が増えなければ物価は上昇しないのです。マネ-が一定に抑えられていれば、原油関連の商品に多額のマネ-が動くことにより、その他の商品にはマネ-は向かわないのです。その結果、その他の商品の価格は下落するのです。経済学の言葉を使えば、相対価格の変化が起き、一般価格は不変なのです。これが、「インフレもデフレも貨幣的現象である」と言われることの意味です。その証拠に、1979年に再び中東で戦争が起き、原油価格が高騰しました(第二次オイルショック)。しかし、このとき日本銀行は賢明でした。マネ-を増やすどころか減らす(増加を抑える)ように努めたのです。その結果、物価はマイルドな上昇ですみました。以上、前置きが長くなりましたが、ここで君の質問の重要な点、今後の展開について考えてみましょう。まず、過去のオイルショックの経験を生かすことが考えられます。つまり、原油高騰によるインフレ懸念を抑えるために金融を引締めるというシナリオです。確かに前述の70年代の2度のオイルショックからの教訓からすればこれは正しい政策の選択となるでしょう。しかし、これは危険だと思います。いいですか、ここがポイントですよ。日本経済を長期不況に落とし込んだのは物価が下落したからです。デフレ克服が重要な政策課題であったのです。物価はすでに上昇していると言われます。確かに消費者物価(CPI)は1.5%ほどになってきました。しかし、エネルギをのぞくCPIではなおマイナス0.1%です(5月現在)。70年代経済はインフレ基調にありました。だから、あのように金融を引締めるという政策が有効であったのです。今はまだデフレの状況です。そこで、2つめのシナリオです。金融緩和の維持です(具体的にはコ-ルレ-トの目標を現状維持か下げること)。金融を引締めること(政策金利の上昇)は絶対に避けるべきだと思います。もし、インフレが加速するようなことになれば、引締めれば良いのです。金融政策は紐のようだとよく言われます。デフレ経済を押し上げるのは難しいが、インフレ経済を引き落とすのは簡単です。確かに今は難しい政策判断求められます。先日の白川日銀総裁の参議院財政委員会での証言は、苦渋に満ちたものでした。要約すれば、「インフレになるかデフレが続くのか良く分からない(中央銀行が判断できないのです)。予断は禁物である。変化に機動的に対応していく」となります。アクセルもブレーキもどちらでも踏める状態にしておくということでしょうね。今夜は七夕だね。大空のロマンでも観ることにしましょうか。
(2008年6月10日)
---------------先生、卒論頑張っているのですが、『大恐慌を見た経済学者11人はどう生きたか』にテミンが金本位制を「ミダス王の手」(P.21)と呼んだ、とありますが、それってどういうことですか。
---------------希望の金融機関に内定が出てよかったね。まずは、おめでとう。さて、「ミダス王の手」の意味ですが、実はこの言葉、あのケインズも使っているのです。それをテミンが真似て使ったのだと思うよ。今度出版された間宮氏による新訳では「両者はともにミダス王の運命をたどることになろう」(『一般理論』岩波文庫p.308)、とあります。同氏は次のような良い注を付けてくれています。ギリシャ神話に出て来る小アジア、フリギアの王。ディオニュソスにより、触れるものすべてが黄金に変えられるという願いを叶えられたが、食べ物まで黄金となり、空腹を満たすことさえできなくなった。ケインズはこの話を「豊富の中の貧困」の喩えとして用いている(同書、p.399)。すでに、君も理解している通り、1920年代多くの国が金本位制に憧れそれに復帰するわけですが(日本も例外ではありません、その辺の事情は城山『男子の本懐』を読んでください)、その結果金本位制をとったことによって大不況に陥ります。この皮肉な結果を見てテミンは金本位制を「ミダス王の手」と呼んだのです。ところで、今回の新訳『一般理論』は大変分かりやすくなっています。私も改めて読み直しています。では、良い卒論期待してますよ。
(2008年4月10日)
------- 先生、今卒論で『大恐慌を見た経済学者11人はどう生きたか』を読んでいます。66ページで質問者パーカーがフリ-ドマンに「それって、プラッキング・モデルですね」と述べています。それって、何です。
------- プラッキング・モデル(plucking model)というのは、マクロの講義でも出てこなかったと思います。フリードマンが主張している考えで、イメ-ジ的には次図のように表せます。経済はトレンド線(潜在的経済成長線)に沿って成長します(赤線)。この線は完全雇用が達成されたときのGDP、つまりマクロ経済学で習った「自然失業率」に対応する線です。このトレンド自体も、人口が減少したとか、原油価格が高騰したとか、上下に変動します。ここまでは、知っていると思います。さて今、マイナスのショック(例えば、金融政策などの失敗)が生じますと、経済はトレンド線から乖離します(pluck down、a →b)。底に達しますとやがて反転し上昇に転じます(b→c)。下降の大きさと上昇の大きさとは対称になります。しかし、上昇の大きさとつぎの下降には対称性はありません。伝統的な考え方では経済はトレンド線の周りを不規則に変化しているとします。フリードマンはそのような考えを否定します。ですから、同じペ-ジで、かれは、「そもそも景気循環のようなものは存在せず、実在するのは経済変動だと信じています」と述べているのです。
(2008年3月10日)
――― 先生、日銀総裁の後任で大変もめていますね。どうして副総裁の武藤さんではダメなのですか。
――― 春休みということで、君たちからよく質問がきます。でも、日本経済にいつも興味をもっていてくれていて嬉しいです。現総裁の福井俊彦氏の任期は今月の19日で切れます。野党の民主党が反対するのは、自民党の推薦する武藤敏郎氏が財務省出身の大物であるということです。金融政策は政治の圧力から独立していなければならない。もし、財務省出身の武藤氏が総裁になれば、財務省の意向を尊重して金融政策を歪める危険があるというのです。現に2000年代初めの超低金利政策は政府の国債残高の負担を大いに軽減した、というのです。財政・金融は絶対に分離されねばならない、というわけだ。武藤氏は大蔵省時代の98年の接待汚職事件ではその処理に手腕を発揮し、また2000年6月の大蔵省から財務省に名前が変わる省庁再編後の初代事務次官に就任、小泉政権を支えた極めて有能な財務官僚といわれている。君たちがよく読んでいる『ビッグコミック』掲載の人気漫画「ゴルゴ13」には日本の官僚組織を牛耳っている財務次官出身の「マツオカ日銀総裁」として登場しています。 確かに、財務省出身だからと言って、政府の財政政策に加担し、国債の金利負担を軽減するために金利を引き下げたりして金融政策を歪めるようなことはあってはなりません。しかし、私たちが報道で知る限りは、武部氏は副総裁として福井総裁の補佐役に徹し、量的金融緩和、その解除、金利引上げと、すべて福井総裁と歩調を同じにしています。
福井氏にはもう大分昔のことですが、お目にかかったことがあります。先代の田杉競学長のお供をして日銀に教授のお願いに上がったときにいろいろお世話いただきました。大変もの静かで、冷静な方であったと記憶しています。帰りの新幹線の中で、田杉学長が「将来は日本の金融界をリードされる方であろう」としきりに感心しておられました。
その意味では武藤氏は正反対の性格の方ではないかと思います。副総裁候補の伊藤隆敏氏、白川方明氏はともに経済学者として立派な方です。伊藤氏は「インフレターゲット」論者ですし、日本の金融政策に大変通じています。わが国よりも海外で大変有名な経済学者です。私の経験でも、海外の学者と日本経済の話しをすると必ず伊藤氏のことが話題になります。白川氏は日銀きっての理論家で平成不況を冷静に分析した論文があります。このお二人が総裁を支えていかれれば日本の金融政策は大丈夫だと思います。総裁の席が空白になることはこの時期絶対に避けねばなりません。
(2008年3月1日)
――― 先生、石原東京都知事が議会に「新銀行東京」に400億円の追加融資を求めましたね。これって公的金融機関の一種ですよね。ということは、やはり公的金融機関はダメだということではないですか。
――― この質問は多く来ました。君も知っての通り、90年代末から2000年代初めにかけて金融不況の嵐が吹き荒れていたころ、銀行による中小零細企業への貸し渋りが大きな社会問題になっていました。「貸し剥がし」というような言葉まで現れました。その時期、石原知事はこのような中小零細企業を見捨てることはできないとして、民間銀行とは異なる新しい銀行の設立に意欲を燃やしました。それが、2005年4月に東京都が出資する「新銀行東京」として実現したのです。
この銀行の特徴は「無担保融資」にあり、民間銀行に見放された企業に融資することでした。わが国の民間金融機関は融資に対しては担保をとるのが当然のビジネスと考えています。それは融資先の財務内容を正確に把握することが困難だからです。したがって、一般に適切な担保を持たない中小零細企業、ベンチャー企業にとって新銀行設立は朗報でした。新銀行は、担保をとらない新たなリスクマネ-ジメントの手法に自信があったようですが、結果は良くなかったようです。融資直後に倒産し不良債権になったケースもいくつかあったようです。現在累積赤字は936億円で、資本金1187億円の80%にもなっています。今後は大幅な人員削減、店舗縮小、成長中小企業への選別融資で、のぞむようです。
先日の読売新聞社説では素人経営の税金無駄使い、知事は責任を取れ、と大変厳しい論調で非難していました。しかし、この銀行がこのままダメになってほしくないです。バブル期のわが国の金融機関、サブプライムローンの発端となった、アメリカの金融機関の無責任な住宅融資、儲かるためなら何をしても良いという安易な市場原理主義は厳に戒められるべきです。困った人を助ける、弱者救済の銀行があって良いのです。もちろん誰彼に無差別融資はいけません。最適な人材配置になっていたか、ネットワ-クの環境は十分であったか、リスクマネ-ジメントは適切であったか、十分検証されねばなりません。しかし、再建可能あるいは成長が期待されるが、担保が無く民間銀行が相手にしてくれない、中小零細企業は少なくないはずです。こういう所に融資の手を差し伸べるのは本当に重要なことです。その意味で少々税金が使われるのは仕方のないことではないでしょうか。それが、長い目で見て国民の真の豊かさにつながるのではないでしょうか。新銀行東京の再生に期待したいですね。
(2008年2月17日)
------ 先生、昨日バイトの帰り、河原町のジュンク堂に寄ったら、エーベンシュタイン『ミルトン・フリードマン』(日経BP社)が沢山並んでいました。あれって、前に先生が原書で読んだら、と紹介してくれた本の訳本ではないですか。ただ、2400円もするので、先生の意見を聞いてからにします。買った方が良いですか。
------ 君の質問メールもらってから、すぐ私もジュンク堂で買い求めました。そうです、前に紹介した本です。私も原書で大体のところは読んでいましたが、改めて翻訳を読みました。やはり、日本語の方がはるかに短時間にかつ丁寧に読めます。前に薦めたのは、内容はフリードマンの伝記で、彼の膨大な業績、波乱の人生を非常に易しく紹介しているからです。著者は経済学者ではなく、ジャーナリストで、研究者ではなく、一般の人を読者と考えて書いています。前に私が訳した、バトラ『フリードマンの経済学と思想』(多賀出版)も同じような種類の本ですが、研究者を対象に書かれています。彼の理論をきちんと理解しようとすれば、バトラの方が良いですが、君のようにフリードマン理論の概要をすでに知っている人にとっては、彼の理論がどのような背景、人間模様の中で出来上がってきたのかを知るのには最適ですね。フリードマンにまつわるゴシップを楽しむことができます。
例えば、ローズ夫人との出会いです。学生時代に彼女に一度失恋して別れて(p.50)、数年後にワシントンで再会し、結婚を決めるのですが、夫人の「(フリードマンには)相手がいなかったのよ」(p.56)には思わず笑ってしまいます。子供に対しても良き父親だったようですね。ミルクをあまり飲まない、赤子の心配をして、ミルクの量と体重の増加を毎日グラフにして統計をとっていたようです(p.105)。
教師としてのフリードマンはなかなか厳しかったようです。学生の提出する論文の字数を厳しく制限しています(p.118)。確かに丁寧に指導しようとすればそれは重要なことです。教え子でノーベル賞受賞のベッカーは「自分が学んだ人の中で一番強い影響を受けた優れた教育者」(p.118)と評価しています。
しかし、試験は非常に厳しかったようです。彼は、「教育とは、教師も学生もともに学びあうことにほかならない」(p.128)と考えていたようです。まさに、その通りですね。
フリードマンは1977年に65歳でシカゴ大学を定年退職し、カリフォルニアのフーバー研究所に移るわけですが、シカゴ時代の秘書であった、グロリア・バレンタインも彼を追って、スタンフォードに移ります。彼女はフリードマン宛の手紙を毎夕彼に届け、フリードマンがそれに対する返事をテープに吹き込むので、それを彼女が書き起こし、承認をもらったうえで投函していたようです(p.257)。この時期私はフリードマンから手紙をもらっています。あの手紙もこのような形で私に届いたということですね。
フリードマンといえば、やはり大恐慌です。13章で彼の大恐慌に対する考えが整理されています。彼は、景気循環という言葉を否定し、そのような現象は外部のランダムなショックにたいする経済の反応として捉えるべきであり、経済変動と呼ぶべきだとしている(p.150-1)。フリードマンの基本的な考えが、「金融政策では、最終的にマネーサプライの安定的な拡大が必要との結論にたどり着いた。インフレもデフレも好ましくない。・・・自分の墓になにか碑銘を彫るとすれば、『インフレはいついかなる場合も貨幣的現象だ』と彫りたい」(p.300)として説明されている。 このように、この本にはフリードマンに関する大変多くの事柄が易しく解説されています。
翻訳ですが、大変よくできています。良い翻訳とは読んでいて、英文を連想させないものだと思います。思い切って日本語にされているかどうかが、重要なポイントです。そのためには内容が十分理解されてなければなりません。その意味でもこの訳者はフリードマン経済学を非常によく理解されています。ぜひ、読んでください。図書館にも購入依頼しておきます。買うか買わないかは君の判断にまかせますが、私は君たちの頃、なけなしの小遣いの中から、面白い本は自分で買って、本棚に飾って楽しんでいました。では、新学期が始まったら感想を述べにきてください。ディスカッション楽しみしています。
(2008年1月22日)
------ 先生、昨日はFRBが政策金利を一挙に0.75%も引き下げましたね。さすが、大恐慌の専門家であるバーナンキ議長ですね。でもこれって、アメリカ発世界恐慌の心配がでてきたということですね。先生、どう思います。
------ 日経平均が12573円ですか。厳しいですね。昨日開催された日銀の政策決定会合でも金利上げは諦めましたね。福井総裁も任期満了の直前に難しい局面を迎えることになりました。さて、今回の世界同時株安はサブプライムローン問題が関係しています。サブプライムの話はゼミでもよくしていますが、もう一度整理しておこう。
アメリカでは通常の住宅ローンと所得の低い人のためのローンの2種類があり、後者がサブプライムローンです。このローンが伸びてきたのは、ITバブル崩壊後、前連銀議長グリーンスパンが積極的な金融緩和を行ったからです。実に2001年には1年間に5%も金利を下げました。これは日本のバブル崩壊後の金融緩和の程度が小さかったことを教訓としてのことです。この大幅な金融緩和の下でアメリカは不況に陥ることなく好況を続け、住宅ブームも起き、住宅バブルという表現も用いられたほどです。この金融緩和は大恐慌および日本の平成不況を教訓としたものであり、デフレの恐怖を学んだ君たちにも十分理解してもらえるものだと思います。
問題はこの金融緩和を背景に通常の商業銀行でない弱小のファイナンス会社が積極的な(無謀な?)融資活動をおこなったことです。これらの金融機関はすでに美味しいところは大手の金融機関に握られているために、担保力のない人たちに住宅ローンを展開するようになったのです。それが、2006年からの住宅価格の下落、金利上昇にともない、住宅価格の上昇、低金利を前提にローンを受けていた人たちの間で突然返済が滞るようになり、不良債権問題が発生したのです。しかし、これは単にアメリカ国内の不良債権問題で終わるはずだったのです。それが、何故わが国の株価下落にまで影響を与え出したのか。それは、住宅ローンの証券化と関係があります。
証券化というのは金融論の講義でも出てきたと思いますが、銀行がローンをおこなうとその債権を証券にして一般投資家に販売することです。一般投資家が借り手から金利および元本を受け取る仕組みです。銀行は証券の販売によりローンの元本を受け取るから、不良債権のリスクはなくなります。そのリスクは証券を購入した投資家が負うことになります。ならば、その証券の購入者のみが損をすればそれで終わり、ということになりそうですが、そうならないところが今回の問題の深刻なところです。
証券会社は高等数学を用いた金融工学の技術を用いて、この住宅ローンを薄く、広く散りばめ、複雑に組み込むことにより、低リスク、高配当の新たな金融商品を生み出し販売したのです(結果的には低リスクではなかったのですが)。世界中の投資家は何らかの形でこのサブプライムローンを含んだ(汚染された)金融商品を購入しているのです。日本の金融機関も例外ではありません。それが今、金融商品一般に不信感がもたれ、売られているのです。株式を含む金融商品すべての評価価格が下がり、それが、また株式の売りを呼んでいるということです。
この証券化は、銀行の弱点である、「長く貸して短く借りる」を克服する、きわめて有益な方法です。預金者は気まぐれでいつ引き出しに来るかわかりません。これに対して貸した方は10年とか20年かけて返済するのです。この問題が大きくクローズアップされたのは、80年代初めにアメリカで発生した貯蓄貸付組合(S&L)問題です。(この辺の事情は『現代アメリカ経済論』日本経済評論社、で詳しく説明しましたから機会があれば読んでください)。
証券化はこのようなリスクをなくしたのです。しかし、銀行はこの証券化によってリスクを負う必要がなくなったことから、安易な貸出し行動にでる危険(モラルハザード)が予想されます。それが現実になったのが、今回のサブプライム問題であると言えるでしょう。
これで、良いですか。また、分からなければ質問をください。証券化とリスクの問題はファイナンスコースで提供されている「リスクマネージメント論」や「デリバティブ論」でさらに学んでください。
(2007.10.24)
------ 先生、本日の日経新聞朝刊の春秋欄に『大恐慌を見た経済学者11人はどう生きたか』が紹介されていましたね。あの大恐慌簡単に要約して説明してもらえませんか。なにしろバイトが忙しくて。お願いします。
------ バイトで忙しいとは困ったね。まとめてみましょう。
1.1925年イギリスが金本位制に復帰。ただし、1ドル=4.86ドルで復帰、これは10%もポンド高であった(強気で復帰)。
2.アメリカが貿易黒字になる一方で、イギリスは貿易赤字に苦しむ。
3.金本位制の下では、輸出増の国では金が流入し、物価が高騰、そのために輸入が減少する。他方輸入増の国では金が流出し、物価が下落、そのために輸出が増加する。このようにして、すべての国で輸出=輸入となる。
4.輸出増加のアメリカは増加した金によるマネーの増分を吸い上げて、物価が上がらないようにした(アメリカの中央銀行、連邦準備による金の不胎化政策)。つまり、アメリカは金本位制のルールを破ったのである。
5.この結果、イギリスの赤字は増加し続け、金の流出が続いた。そこで、アメリカはG4の開催を要求。1927年にアメリカ、イギリス、フランス、ドイツの4カ国の代表がアメリカで会談、そして、アメリカに金融緩和(マネーの量を増やす)を求めた。
6.アメリカでバブル発生、株価が急高騰する。連邦準備はバブルと判断し、急激なバブル潰しの金融引締めを実施、最初は効果がなかったが、少しずつ影響が浸透(金融政策にはラグが伴う)し、1929年10月24日(木)に株価が急下落する(暗黒の木曜日)。
7.これに対応すべく、NY連銀は緊急の金融緩和を実施(1億3000万ドルの緊急融資、1億6000万ドルの買いオペの実行)。しかし、各連銀を統括する連邦準備理事会から「本部に相談もなく勝手な政策は2度としてはならない」(p.73)として、NY連銀の総裁(ジョージ・ハリソン)は厳しく咎められる。以後、NY連銀は沈黙を守る(連銀の無策)。
8. 何故、理事会はNY連銀を責めたのか。NYの前総裁はベンジャミング・ストロングで大変能力のあるカリスマ性を持った人物で、他の連銀の総裁からも一目置かれていた。しかし、彼は1928年に結核で死去する。その衣鉢を継いだハリソンにはその能力はなく、他の連銀から長年の鬱憤からかことごとく批判され、全連銀の意見を尊重した民主的運営が強調される。凡庸な指導者たちの集団指導体制に変わる。「もし、ストロングが1930年の秋になお健在でNY連銀の長の座にあったなら、彼はおそらく襲ってくる流動性危機の原因を正しく認識し、経験と強い信念により、身を挺して金融システムを守ったであろう」(p.121)。
9.1930年、11,12月に第一次銀行パニック。金がアメリカに大量流入してきたのに、またルールを破り、不胎化政策を実施した。また、連邦準備理会は「真正手形ドクトリン」を強く守るようになっていたので、CPを持ち込まない連銀にはマネーを渡さなかった。つまり、CPを差し出す銀行にのみ貸出しを実施した。CPは優良な企業が自己の生産を拡大するために必要な資金を獲得するために銀行から資金を得るために発行する短期証券である(健全銀行主義)。しかしながら、景気が悪化する中で銀行は景気が悪化する中でCPを発行して生産拡大をおこなう企業はなく、またすでに保有しているCPも流動性危機の中ですでに現金化していた。したがって、この時にはほとんど銀行にはCPが存在せず、連銀からの借入れを受けることができなかった。
10.1931年3月、第二次銀行パニック発生。3月クレディット・アンスタルトの倒産、ヨーロッパに金融不安拡大。ポンド不安が高まり、イギリスから金流出急増する。12月イギリスが金本位制から離脱宣言。その結果、イギリスは少しずつ金融緩和、景気回復。
11.アメリカで金の流出急増、それを阻止するために金利上げる(不況の中で金融引締め)。さらに、翌年6月にはフーバー大統領が増税を実施。議会が連銀に金融緩和するように強く要請、その結果、32年5-6月にかけて連銀はしぶしぶ金融緩和の実施(買いオペ)、しかし、議会が夏休みに入りそのプレッシャが消えたために金融緩和は不十分。
12.1932年11月に第三次銀行パニックの発生。33年1月から3月にかけて4000の銀行が倒産、失業率は最悪の25%に上昇した。1933年3月景気が最悪になる中、新大統領ルーズベルト誕生。ただちに金本位制の停止を実行。景気回復。
13.大規模な金融緩和によって、民間銀行が大量の資金を保有している(所要準備率をはるかに上回る超過準備は今後インフレを引起すのではないか)ことに懸念をしたルーズベルト大統領は所要準備率を1936年から37年にかけて3回にわたって引き上げた。その結果、再びアメリカは不況になった(ルーズベルト不況)。銀行は不況の厳しさ、銀行取付の恐ろしさを覚えており、十分な超過準備を保有していたいと思っていた。そこで、あらたに超過準備を増やす行動に出て、貸し渋りを起こし、不況を招いた(p.167)。
14.1937年8月、金融緩和の実施、軍需の拡大、アメリカはやっと大恐慌から脱出する。
15.教訓は生かされている。1987年の株価暴落に際し、グリ-ンスパン議長は金融システムに大量の流動性を供給することを全国ネットで放送し、それを実行した。数週間後にその超過流動性を静かに引き上げた。フリードマンはこれに対して、「まさに私のやろうとしたことをやってくれた」と、最高の賛辞を送った。アーラン・グリーンスパン:ITバブルを放置しておいた責任を問われて(2002年12月19日の講演)「20年代の歴史的経験に照らして考えるならば、バブルを副作用なく漸次的に解消できるという主張は疑わざるを得ません。経済を深刻な不況に追い落とすほどの急激な短期金利の引き上げでも行わない限り、バブル発生を未然に防ぐことは困難。漸次的に金利を引き上げていたら、90年代後半のバブルを防げたというのは幻想にすぎない。バブルが発生した場合、その崩壊後の悪影響を出来るだけ少なくする政策をとり、できればつぎの景気拡大局面までの滑らかな移行ができるようにすること。低インフレと経済活動の低下が生ずる危険がはっきりした時点で積極的な金融緩和に転じた」
(2006.10.1)
------ 先生、今夏もフィンランドで研究されていたのですか。先生が講義の合間によく話してくれるフィンランドへ僕もぜひ行ってみたいと思います。どのような国なのかもう少し具体的に教えてください。
------ フィンランドに関心をもってくれて有難う。ところで、君はシベリウスという作曲家を知っているかい。かれが今から100年ほど前に作った「フィンランディア」という交響曲を聞いてごらん。PCでも簡単に聴くことができるよ。この曲は隣の大国ロシアの圧政に立ち向かうフィンランド国民の心意気を示しています。小さな弱い子供が大きないじめっ子に敢然と戦う姿が目に浮かびます。美しくかつ力強い旋律は聴くものを魅了せずにはおきません。私も落ち込んだ時には、いつもこの曲を聴いて自分を励ましています。この国は常に大国ロシアに翻弄されつつ成長してきた国であることを知っておく必要があります。さて、フィンランドと言えば、君もよく知っているように高福祉、高負担の国家で、効率よりも平等が選択され、戦後福祉国家としての道を着々と進めてきました。国民は昔から勤勉にして自立心が強く、教育を大変重んじます。第二次世界大戦はドイツを支持したがゆえに同国に非常に不幸な結果をもたらしましたが、持ち前の勤勉さで1952年には早くもヘルシンキオリンピックを開催するなど、奇跡の復活を遂げました。彼らはこのことを「ヨーロッパのジャパン」であると自慢げに話してくれます。しかし、その後、順風満帆に見えたフィンランドも1990年には厳しい経済不況に苦しむことになるのです。その不況の深刻さは、わが国の平成不況の比ではなく、あの30年代の大恐慌を凌ぐものであり、一時は福祉国家の終焉とまで言われたのです。しかしながら、適切な政策と国民の努力により、再びフィンランド経済は復活を遂げました。わが国の経済が平成不況の中で長期にわたって苦しんだのとは対照的です。もちろん、同国のもつ問題は今もなおさまざまあります。しかしながら、福祉国家に軸をおきながら経済発展をはかろうとする同国の姿は、ともすれば福祉重視は経済発展の足かせと考える今日のわが国に大いに参考になるはずです。今学期はこのような点を軸にしながら講義展開をしていきますからどうか楽しみにしてください。
さて、余談ですが、ヘルシンキを舞台にした映画「かもめ食堂」が日本で上演され大変人気を呼んでいると、現地のテレビがしばしば報道していました。私もよくどういう映画かしばしば質問されました。今回滞在したのはヨエンスで白樺の並木道の大変美しい、静かな街でした。
http://joypub.joensuu.fi/publications/other_publications/miyagawa_reflections/index_en.html
(2006.11.18)
------ 先生、昨日夕刊を見ました、ミルトン・フリ-ドマンが亡くなりましたね。先生の講義では彼の名前がとてもよく出てきますね。先生の感想を聞かせてください。
------ ビックリしました。でも、もうお年ですから(1912年生まれ)、いずれこうなると思っていました。かれの貢献は講義の中で君も耳にタコができるくらい聞いているように、3つあります。1つはマネ-(現金プラス預金)の重視、2つ目は自由競争を前提にした市場経済の重視、3つ目は経済研究の方法論に関して。1については、30年代の大恐慌はマネ-を増加させなかったアメリカの連邦準備制度(中央銀行)に最大の責任があることを、アメリカの歴史デ-タを基に見事に立証しました。マネーの重要性を強調するかれの有名な言葉です。Inflation is always and everywhere a monetary phenomenon(インフレが起きるのはマネーが増加しているからであり、これはいつの時代でもどこの国でも当てはまる)。これを反対に読めば、デフレはマネーの減少、ということになります。3はデ-タを大切にしなさいということです。かれはよくThe proof of the pudding is in the eating(お菓子の味は食べてみないと分からない)と言います。ただ、3つ目の自由競争については、私の考えは少し揺らいでいます。この問題を考えると頭がいつも混乱します。
フリ-ドマン自身の最近の声は拙訳『大恐慌を見た経済学者11人はどう生きたか』(中央経済社)に出ています。同書は現在アメリカの連銀議長のベン・バ-ナンキも推薦していますので、ぜひ一度読んでごらん。また、フリ-ドマンの研究全体を理解したいのなら、これも拙訳『フリ-ドマンの経済学と思想』(多賀出版)がよいと思います。また、フリ-ドマンの考えの問題点を知るには、これも拙訳(阪大の筒井氏との共訳)『病める経済アメリカ』(多賀出版)が分かりやすいと思います。また、最近出版された、フリードマンの伝記、L.Ebenstein,
Milton Friedman, Palgrve Macmillan,2007も面白いです。一つ、君も原書に挑戦してみては。
フリ-ドマンは実にすばらしい経済学者だと思います。論争してかれに勝った経済学者は一人もいないと言われています。学者としては非常に厳しい論争家ですが、大変親切な教師としての側面をもっています。私も個人的に何度か質問しましたが、いつも丁寧に答えてくれます。留学の相談にものってもらったほどです。この点はいつも肝に銘じるようにしているのですが、どうでしょうか・…・。
ベン・バーナンキ(2002年10月の講演で)「金融政策の目標は物価の安定に向けられるべきであって、資産価格の安定を目指すべきではない。資産価格の上昇がかならず崩壊につながるものでもない。IT株などの一部が株価上昇を引っ張っており、そのような株価の下げのために金利を上げれば経済活動全体をダメにする。資産バブルに対しては、金融機関のB/Sが資産価格の大きな変動に耐えられるかのチェックをすること」
(2006.3.1)
------ 先生、金融政策決定会合がいま話題になっていますが、それって何です。詳しく説明してください。
------ 了解。日銀の金融政策の方向を決める、日銀の最高の意思決定機関で、毎月1,2回開催されます。政策決定委員会は総裁と副総裁2名、それに外部の委員6名の合計9名から構成されます。決定は「多数決」によります。したがって、委員の数は奇数になっています。総裁は議長になり議案を提出しますが、議決に際しては、9票のうちの1票でしかありません。もし、議案を提出して、否決でもされれば、議長たる総裁の面目丸つぶれで、日銀に対する信頼も揺らぎかねません。今回の量的金融緩和解除についての提案をどうするか、福井総裁も大変悩むところです。ちなみに、現在の委員の顔ぶれは以下のようです。
政策委員会のメンバー
福井俊彦 |
総裁(議長) |
武藤敏郎 |
副総裁(元財務事務次官) |
岩田一政 |
副総裁(元東大教授) |
須田美也子 |
審議委員(元学習院大教授) |
中原 真 |
審議委員(元東京三菱銀行副頭取) |
春 英彦 |
審議委員(元東京電力副社長) |
福間年勝 |
審議委員(元三井物産副社長) |
水野温氏 |
審議委員(シンクタンク、エコノミスト) |
西村清彦 |
審議委員(元東大教授) |
(2006.3.10)
------ 先生、ついに日銀は量的金融緩和政策の解除に踏切りましたね。せっかく良くなりだした日本の景気、これで大丈夫ですかね。ゼミで勉強した大恐慌時の1937年と同じように、また景気回復の足を引っ張るのでは。竹中大臣もまだデフレは終わっていないのに、と怒ってますね。
------ 君もすでに承知のように、日銀は深刻な日本経済のデフレに対処するために2001年3月より大量の資金を民間金融機関に流し続けてきました。現在は主として民間金融機関の日銀当座預金が30兆円から35兆円になるまで、お金を民間銀行に供給しています。これが量的金融緩和政策ですね。金融機関が預金の引出しに備えて準備しなければならない準備(所要準備)は約6兆円ですから、とんでもない額のお金が民間金融機関には蓄積されているわけです。ですから、乾いた薪の上に、日本経済が乗っかっている(大インフレが起きる)と言われるのも無理ない話です。しかし、この政策によって企業は金利負担が軽減され、銀行も不良債権処理を進めることができました。円高も押さえ、輸出を促進しました。このような効果があって景気は回復してきたのです。
さて、君の質問ですが、今回の政策でどのようになるでしょうか。金利は上昇するかもしれません。金利の上昇は企業の収益を圧迫するでしょう(金利が1%上昇すれば企業の収益は5-10%減少するという計算も出ています)。住宅ロ-ンの金利も上昇するでしょう。金利の上昇はこれまでの円安から円高基調に変わり、輸出を抑制するでしょう。また、金融論で勉強したように、金利の上昇は債券価格の下落を起こします。大量の国債を抱えている金融機関にとっては大変な問題です。だから、竹中大臣は渋い顔をしたのでしょう。しかし、中央銀行の独立性は守られねばなりません。政治が金融政策に影響を与えることは避けねばなりません。ここは、量的金融緩和解除により、日銀は金利変更を通じて政策の実施できる環境を作ることができたと、評価すべきでしょう。福井総裁も強調していますが、量的緩和は解除したが、ゼロ金利は当面継続することが非常に大切だと思います。金利操作が可能になったからといって、良い気になって金利を上げることは絶対に避けるべきです。君の心配するように大恐慌の教訓は忘れてはなりません。
(2006.4.1)
------ 先生、私の叔父が先日退職し、退職金をもらい、それを銀行で定期にしょうとしたら、投資信託、それも海外のものが良いですよ、と薦められたそうです。叔父も悩んでいます。何かアドバイスしてやってください。
------ これは難問です。しかし、これを経済学の一つの良い勉強材料ですね。銀行が叔父さんに投資信託を薦めたのは、君も承知のように、今は非常な金融緩和状況の下で銀行には資金がだぶついており、あまり預金を集める必要はないのです。それよりも投資信託を販売して手数料収入を得た方がよいのです。投資信託は購入者から資金を集めて、それを金融の専門家が運用し、その利益を購入者に配分するものです。大量の資金を集めますから、危険分散も可能で、最新の金融工学の技術も応用しやすいのです。ここ1年ほど日本経済が回復基調にあることから、株価も上昇しています。したがって、それらを組み込んだ、投資信託も当然のことながら大変好調です。ここ数年で、投資信託によってはその価格が2倍近くになったものもあるようです。
問題は海外の投資信託を薦めるという点ですね。おそらく、その担当者は、為替相場は今後長期的に円安に進むとみているのでしょう。高い成長の見込まれる海外の優良企業に投資し、高い配当収入を得る、というのは大切なことですが、それ以外に、ドルやユ-ロといった外国通貨で購入するわけですから、売却時点での為替相場が大変重要となります。せっかく高い配当を得ても、売却時に大幅な円高になっていれば、その投資信託からの収益はマイナスになる可能性もあります。逆に、投資信託自体の収益は少なくとも、大幅な円安になっていれば大きな収益を得ることができます。
したがって、将来円安になるかどうか、が重要なポイントでしょう。この担当者が円安になると考えているのは、日本の財政収支にあると思います。君も承知のように、わが国の借金は813兆円(国民1人当り636万円)、地方の借金を合せればその合計は1000兆円にもなります。この借金が無事返済できるのでしょうか。もしできなければ、大量の国債発行になり、それが国債価格の暴落につながり、長期金利の上昇を引き起こします。国債が売れなくなると、その価格は下がりますね、そうすればその利回り(金利)はおのずと上昇します(債券の価格と金利は反対の方向に動く、と習いましたね)。金利が上昇すれば、景気が悪くなります。そこで、日本銀行としては金融緩和をするでしょう。もっと言うと、日銀は政府の赤字を支えるような金融緩和政策をとるように追い込まれるでしょう。マネ-サプライは増加し物価は上昇します(Mの増加はPの上昇をもたらすという貨幣数量説を思い出してください)。景気が悪いのに物価が上昇するという、最悪のパタ-ンが生じる可能性があります。すると、わが国資金は海外に流れ、また海外からの資金が引き上げられ、円安になるという、ことです。このような事態は絶対に避けねばなりません。そこで、財政再建が非常に重要になってくるのです。少し景気が上向いてきたから、公共事業をそろそろ増やしてはという声が議員からは聞こえてきますが、そのような声には負けてはなりません。この4月からは社会福祉関係の予算も大幅に削られました。社会的弱者の人たちもこの厳しい試練に必死に耐えていることを忘れてはなりません。
叔父さんの退職金運用については、適切なアドバイスにはなりませんが、基本的な考えだけを伝えてください。
(2006.4.10)
------ 先生、今公的金融機関が問題になっていますが、何故いけないのでしょうか。私は大変重要だと思うのですが。他の国ではどうなっていますか。
------ 公的金融機関の民営化問題は、小泉政権の民間にできることはできるだけ民間に任せよう、という政策方針から生じたものです。なぜ、公的金融機関が存在するかというと、それは社会的、国家的見地からして、重要な資金融資であるが、採算ベ-スに合わないために、民間金融機関では融資できない、投資プロジェクトが存在するからだということです。要するに、非常に重要であるけれども、儲からない、あるいはあまりにも期間が長すぎてリスクが大きく、どの銀行も金を貸してくれないような事業が存在するわけです。そこに採算を度外視した、公的金融機関の存在意義があるのです。しかし、公的金融機関の存在があまりにも大きくなりすぎると、民間金融機関の適切な行動を妨げます。専門的な言葉でいうと、金融市場における適切な資金配分を歪めてしまいます(国民経済的に見て非効率な資金配分がおこなわれる)。ですから、公的金融機関は問題である、ということになるのです。
公的金融機関はヨ-ロッパにおいても大きな問題になっています。たとえば、ドイツでは公的金融機関としては、貯蓄銀行および特別金融機関があります。前者は各自治体によって設立されたもので、その自治体内で通常の金融業務をおこない、後者は国および自治体の特殊な政策目的を遂行するために設立されたものです。この両者でドイツの金融シェアの約50%を占めます。とくに、貯蓄銀行は安全かつ身近な存在で、ドイツ国民にとっては大変人気があります。ちょうど、わが国の郵便貯金のような存在ですね。これらの公的金融機関は国や自治体の100%保証を受け、それに対するコストはなにも負担しなくてすむわけですから、民間金融機関から不公平であるという不満が出てくるのは当然のことです。それで、現在ではこれらの公的金融機関と民間金融機関ができるだけ同じ条件の下で競争できるように、これまで与えられていたいくつかの特典、恩典が廃止される方向で検討が加えられています。わが国と同じような流れになっているのですね。公的金融の存在が資金の効率的配分を妨げている(資金が無駄な使い方をされる)、ということには十分配慮する必要があります。しかし、すべて市場原理で解決しようとすることは絶対に無理があります。市場のプレイヤになれない案件、人たちはどのようになるのでしょう。ヨ-ロッパのこのような動き今後も引き続き注目していきましょう。
(2006.4.15)
------ 先生、卒論概要ができましたので見てください。
卒論概要
私は、ゼミで大恐慌について学んできました。大恐慌は1929年の10月にアメリカの株価が大暴落して始まりました。その日が木曜日であったことから、ブラックサ-ズデ-(暗黒の木曜日)と呼ばれています。これは、1990年から三重野日銀総裁が「平成の鬼平」と呼ばれて、公定歩合をどんどん上げたことにより株価、地価が急下落したことと似ています。もっと似ているのは、日本のバブル崩壊、アメリカの株価暴落の前には、経済がともにバブル状態で資産価格が暴騰していたことです。
最近の大恐慌の研究は、アメリカの中央銀行である、連邦準備制度が不況であるにもかかわらず、貨幣量(マネ-サプライ)を増加させる政策をしなかったことです。それが、単なる株価暴落を金融パニック、さらにはデフレ-ションを引き起こして多数の国民を苦しめ、さらには金本位制であったために、その恐慌を世界中に拡大し、最後には第二次世界大戦を引き起こしました。
わが国も1985年のプラザ合意以降、アメリカに言われるままに、金融を緩和し続け、マネ-サプライを年率10%以上で増やし、バブルを引き起こし、その後は(バブル崩壊後は)逆に十分金融を緩和せず、経済をどんどんデフレにまで追いやってしまった。日銀の政策の失敗です。大恐慌のように中央銀行の政策失敗が戦争まで引き起こさなかったけれど、多くの国民は失業、リストラ、賃金カットに苦しみ、学生は就職難に苦しみ、フリ-タへと追いやられていった。
中央銀行の政策、不況期には思い切って貨幣量を増やすことが大切である。この点を卒論では詳しく述べたい。
参考文献
ホ-ル『大恐慌』多賀出版
パ-カ『大恐慌を見た経済学者11人はどう生きたか』中央経済社
原田泰『デフレは何故怖いか』文春新書
岩田『デフレの経済学』東洋経済
岩田『日本経済にいま何が起きているのか』東洋経済
林『大恐慌のアメリカ』岩波新書
秋元『世界大恐慌』講談社
侘美『大恐慌型不況』講談社
------ なかなか良くできてるね。これまでの私の講義を理解してくれていて嬉しいです。経済がデフレに陥った段階では積極的な金融緩和は絶対必要だね。ぜひ、この方向で進めてください。
(2006.7.15)
------ 先生、今朝の朝刊読みました。ついに日銀は金利引上げにふみきりましたね。これで私たちの預金金利も上がり、大変有難いことだと理解して良いのですね。でも、どうして、預金金利や住宅金利も上がるのか、よくわかりません。分かりやすく教えてください。
------ まず、ゼロ金利解除から説明しよう。日銀は14日開催の金融政策決定会合でゼロ金利政策の解除を正式に決定しました。正式に言うと、「無担保コール翌日物金利」の誘導目標をゼロから0.25%に引き上げたということです。この金利は銀行同士が借り貸しする時の金利で1日だけ借りるときの金利です。それが0%から0.25%になるように日銀は誘導するというのだ。銀行同士が貸し借りする市場に日銀はオペレーション(短期国債の売買)によって日々そこの資金量を調整しているのだ(これを日銀の金融調節と言います)。これをもう少し分かりやすく説明すると、日銀はこれまで短期金利市場という水の入ったバケツにいつも水が一杯になるように水(資金)を注ぎ込んでいたのだ。水のほしい人にはどうぞ、どうぞと無料で貸出し、水が少なくなればまた補給するというやり方をとっていたわけだ。しかし、今日からはそうはいきませんよ、水を入れる人と水を汲み上げる人と相談して水の値段を決めて下さい、ということなのです。しかし、あまり水の値段が高くなりすぎては困るから、少し上がり始めたらまた日銀は水を補給します。その目安となる値が0.25%ということなのだ。だから、この水準より上がりそうになるとまた積極的に水を補給するわけです。
それでは次の質問に移ろう。1日物(翌日物)の金利が上がっただけでどうして、すべての金利が上昇するのかだね。まず、1日物の金利が上昇すると、そのような資金を借りるより1週間物(満期が1週間)の資金を借りる方が得だということになり、その期間の資金需要が増加し、金利が上昇します。1週間物の金利が上昇すれば、それなら1カ月物の方が得になるというわけで、順により長期の資金の金利が上昇していくわけだ(これを金利裁定が働くと言います)。最初の金利(翌日物)さえ変化させればすべての金利(期日物)が動くというわけさ。
つぎにそれがどうして預金金利の上昇につながるかだね。短期金融市場の金利が上昇してくると、銀行としても資金はいつも潤沢にあるという状態ではなくなってきます。少し本気になって預金を集める努力をしなければなりません。ということは、預金金利を上げることによって預金者の気持ちを引き付ける必要があるということだ。したがって、短期金融市場の金利上昇が大きくなればなるほど、預金金利も上昇するというわけさ。
もうここまで、くればどうして住宅ローンの金利が上昇するかも分かるね。そう、銀行にとってお金を集めることが高くなると、貸出しの金利も上げざるをえなくなるというわけさ。石油の値段が上がればトイレットペーパの値段が上がるのと同じことだね。
そこで、この金利上昇はどの程度長期の金利にまで浸透するかということだが、これは大変重要な問題です。上昇の仕方、浸透期間の長さは人々(市場関係者)がこの金利上昇傾向がどの程度続くと予想するかに拠っています。すぐ、またもとに戻ると予想していればそれ程大きく長期の金利に波及していきません。しかし、いよいよ高金利到来だ、と予想する人が増えれば、一気に高金利時代に突入します。福井総裁が記者会見で「ゆっくりと」とか「徐々に」とか「慎重に見極めながら」という言葉を盛んに使っているのは、市場をけん制するために、決して厳しい引き締めはしませんよというシグナルを送っているのだ。分りましたか。疑問があればまたメ-ルください。
(2006.7.23)
------ 先生、有難う。よくわかりました。ますます、経済が好きになってきました。それで、もう一つ分からないことがあるのですが、高校の社会で金融政策といえば、公定歩合だと習いましたが、それって今はどうなっているのでしょうか。
------ 公定歩合というのは、日銀から直接資金を借入れるときの金利です。その金利の高低によって銀行の利用できる資金量が決まるから、金融政策の重要な手段、と習ったのでしょう。それは正しいです。しかし、90年代の半ばからは、先日説明した、短期金融市場の金利(翌日物金利)が政策金利となっています。先日の金融政策決定会合では公定歩合は0.1%から0.4%に引き上げられました。でも、公定歩合は今では、短期市場金利の上限を課すという役割を果たしているにすぎません。つまり、短期金融市場で資金の借入れが急増し、金利が急上昇したときには、日銀貸出しを増やし(水を差す)、その急騰を抑えるという役割を果たすのです。そこで、福井総裁は14日の記者会見では、公定歩合という名称を今後は使わずに、金融機関に担保の範囲内で資金を貸出す補完貸付の基準金利と呼ぶことにする、と述べています。
それにしても、君が経済に好きになっていくのが良く分かって先生もとても嬉しいよ。いよいよ夏休みだね。どうか有意義な休みを送ってください。夏休みの課題レポート頑張ってね。